その優しさに溺れる。〜一線を超えてから、会社の後輩の溺愛が止まらない〜

この関係に、名前を。

あの笑顔。
不器用で、でも、優しい笑顔。
思わず「またね」と声をかけてしまった、あの時。
聞いた名前は、確か――

「……久遠、くん……」

思わず口から漏れたその言葉。
その瞬間、湊の動きがピタリと止まった。
息を止めたように顔を上げる。
そして、驚いたように見下ろすその瞳は、さっきまでの熱とは違う色をしていた。

「……えっ」

滲んだ瞳が、かすかに震える。
ずっと胸にしまい込んでいたものが、今すべて剥がれ落ちたような表情。

「……湊くん……あなた……昔、私と会ったことがある…?」

「な、なんで…」

湊の声が震える。

「高校の時、私、傷だらけの男の子手当てしたことある…。あの子…湊くん…?」

「っ、詩乃さん……俺のこと、覚えてたの……?」

言葉にならない。
でも、今、すべての点がつながった。
肌に残る熱の中に、時間を越えて繋がった想いが溶け込んでいく。
静まり返った部屋で、二人の呼吸だけが微かに響いていた。

湊の腕の中。
抱かれるというより、縋るように詩乃を包み込むその体温が、どこまでもあたたかくて、泣きたくなるほど優しかった。

「……ごめん、詩乃さん」

ぽつりと湊がこぼす。

「強引にして、身体だけでも手に入れようとして、最低だよな……こんなの」

いつもの軽やかな調子ではなく、迷子のように言葉を探す声。
詩乃は首を振った。

「……私の方こそ、ごめんなさい。さっき、私を見下ろしてた湊くんの目を見た瞬間、思い出したの。あの日のこと」

視線を絡めたまま、ゆっくりと紡ぐ言葉。

「ボロボロで、寂しそうで、でも『ありがとう』って照れながら言ってくれた……あの時の、男の子。あれが……湊くん、だったんだね」

しばらくの沈黙のあと、湊は小さく笑った。

「……俺、気づいてた。はじめて会社で詩乃さんを見た瞬間、あの時の人だって」

「……っ」

「高校の時の俺なんて、金髪で、素行も悪くて、喧嘩ばっかしてて……おまけに家もめちゃくちゃで、何もかも壊れてた。そんな俺に、あんな優しくしてくれたの、詩乃さんが初めてだった」

滲む感情が、静かな声に痛いほど乗る。

「忘れられるわけないよ。あの時の、あの温度。だから……職場で再会したとき、すぐにわかった」

「……じゃあ、どうして……」

「彼氏がいたから」

短く、でも確かな言葉。

「幸せそうだったし、手出しちゃいけないって思った。……でも、それでも近くにいたくて、同僚って距離でずっと我慢してた」

詩乃の胸がぎゅうっと締めつけられる。
これまで湊が向けてくれた優しさの意味が、ようやくつながった。

「でも、あの日……詩乃さんが一人で泣いてるの見て、もう止められなくなった。俺、もう……あなたのこと、諦めたくなかった」

湊の指先が、そっと詩乃の頬を撫でる。

「セフレでもいい、って思った。……こんな最低な関係でも、側にいられるならって」

「……湊くん」

詩乃の喉が詰まる。
自分が距離を置こうとしたことで、湊はもっと深く傷ついていた。

「でも、本当は……この関係に“名前”がほしかった。ちゃんと、“恋人”になりたかったんだ」

沈黙が二人の間を満たす。
でも、それはもう以前のようなすれ違いではなかった。
詩乃は、そっと湊の手を握り返した。
< 35 / 39 >

この作品をシェア

pagetop