その優しさに溺れる。〜一線を超えてから、会社の後輩の溺愛が止まらない〜
【過去編】『はじまりの傷と、忘れられない優しさ』
金属の匂いと、砂混じりの土の感触。
頬を打つ風は冷たいのに、火照った身体からは、じっとりと汗がにじんでいた。
喧嘩は、勝ったり負けたり。
今日は、負けの日だった。
(……クソッ)
数は分かってた。
けど、どうしても拳を出すのをやめられなかった。
ムカついた。あの言い方に。
兄貴ヅラした先輩の顔も、言い訳ばっかの親の顔も。家も、学校も、全部――うざい。
気づけば拳を振っていて、 気づけば、地面に蹲っていた。
(別に、こんなことで泣いたりしねえし)
唇が切れて、血が流れて。 目の下も殴られてるのか、鈍く痛む。
そのときだった。
「……だ、大丈夫……?」
女の声。驚くほどやさしい声。
眩しさに目を細めると、制服を着た女の人が立っていた。
真っ直ぐな瞳で、俺を見下ろしてる。
「放っとけよ」
反射で、つっけんどんな言葉を吐く。
同情なんかいらねえ。傷の一つや二つ、慣れてる。
だけど立ち上がろうとした瞬間、足に力が入らず、また崩れた。
(ちっ……情けねぇ)
「…こんなところで…そんなボロボロな状態だったら、心配になるに決まってるでしょ。見つけちゃったからには、放っておけないよ。」
そう言って、怖がるわけでもなく、芯の強い目で俺をみた。
唖然とする俺に、彼女は自然に手を差し出す。
「ねぇ…手当てさせて?」
(……なんだよ、こいつ)
押しつけがましいわけじゃない。ただ、その瞳は心配げに揺れていて、真っ直ぐだった。
うざい、でも――放っておけない温度をしていた。
『うざっ』
そう返しながらも、俺はその手を振り払うこともできずにいた。
気づけば、言われるがまま保健室に連れて行かれていた。
*
彼女の手が、ガーゼを取って、俺の傷口に当てる。
「いっ……」
「ごめん、沁みた?もうすぐ終わるから、我慢してね」
「べっつに、痛くねーし」
言いながら、少しだけ涙が滲んでた。
「ふふ」
「笑うなよ」
「ごめんね?…可愛くて」
「は?」
予想外の言葉に、拍子抜けした声がでる。そんなこと、こんな見た目の奴に言った人初めてだった。
笑われて、ムカついて、でもその笑顔はやけに綺麗で――知らない間に、見惚れてた。
「アンタ、俺、こんななりなのに怖くねーの?」
「別に、怖くはない、かな?ていうか、敬語。あなた、一年生でしょ?その上履きの色。私先輩なんですけど?」
(……先輩、ね)
女に“敬語”なんて使ったことねーけど。 この人には、少しだけ頭が上がらなかった。
「……ふーん、先輩なんだ。…ねえ、名前、教えてよ」
「またそんな口の聞き方…。深雪詩乃だよ。こう見えて3年生なんだからね」
「みゆき、しの……」
名前を呟いた瞬間、なぜか胸の奥がジンとした。覚えた。音の響きごと、全部。
「君は?」
少し迷ったけど、ちゃんと答えた。
「久遠(くおん)湊」
「久遠くんね…。よし、包帯おっけー」
「…意外と上手じゃん、包帯巻くの」
「意外と…?」
「褒めてるから!こんな言い方しかできねーの!」
照れ臭くて、うまく言えない。
そんな俺をみて、また彼女が笑った。
帰り際。
ドアを開けて、出て行こうとしたとき、なぜか、名残惜しい気持ちになった。最後に、何か伝えたくなって、俺のほうから口を開いた。
「……ありがと。詩乃、先輩」
たったそれだけの言葉が、 何よりも素直な、俺の“心の始まり”だった。
先輩は、少し驚いたように目を見開いて、「またね。久遠くん。」と、フワッと笑った。
ーーーその笑顔が、綺麗で眩しくて忘れられなかった。
* * *
その日から、学校に行く回数が少しずつ増えた。あの人にまた会えるかもしれない――ただ、それだけの理由で。
「久遠くん、またちゃんと学校きてる」
「ついに更生したのかな?」
そんな周囲の声も、不思議と気にならなくなった。
三年と一年じゃ教室も遠いから、簡単には会えなかったけど。
それでも、ある日の放課後。
いつもの帰り道で、偶然、彼女を見かけた。制服のシルエットを見た瞬間、心臓がバクバクとうるさく鳴った。
(いた。……やっと、みつけた)
そう思ったのも束の間――
「詩乃!」
駆け寄ってきた男子の声が、風に溶けて響いた。
「圭介、もー遅い」
「ごめんごめん! お詫びに好きって百回言うから!」
「なにそれ。好きが軽くなるからやめて」
呆れたように笑って、でも、心底幸せそうな顔で。彼女はその男と手を繋いで、並んで歩いていった。
……ああ、そうか。
最初から、俺には――近づく資格すら、なかったんだ。
ただあの日、 傷ついた俺に、あたたかな優しさをくれた人。
でも、気づかないうちに俺は、手の届かないものを欲しがっていたのかもしれない。
頬を打つ風は冷たいのに、火照った身体からは、じっとりと汗がにじんでいた。
喧嘩は、勝ったり負けたり。
今日は、負けの日だった。
(……クソッ)
数は分かってた。
けど、どうしても拳を出すのをやめられなかった。
ムカついた。あの言い方に。
兄貴ヅラした先輩の顔も、言い訳ばっかの親の顔も。家も、学校も、全部――うざい。
気づけば拳を振っていて、 気づけば、地面に蹲っていた。
(別に、こんなことで泣いたりしねえし)
唇が切れて、血が流れて。 目の下も殴られてるのか、鈍く痛む。
そのときだった。
「……だ、大丈夫……?」
女の声。驚くほどやさしい声。
眩しさに目を細めると、制服を着た女の人が立っていた。
真っ直ぐな瞳で、俺を見下ろしてる。
「放っとけよ」
反射で、つっけんどんな言葉を吐く。
同情なんかいらねえ。傷の一つや二つ、慣れてる。
だけど立ち上がろうとした瞬間、足に力が入らず、また崩れた。
(ちっ……情けねぇ)
「…こんなところで…そんなボロボロな状態だったら、心配になるに決まってるでしょ。見つけちゃったからには、放っておけないよ。」
そう言って、怖がるわけでもなく、芯の強い目で俺をみた。
唖然とする俺に、彼女は自然に手を差し出す。
「ねぇ…手当てさせて?」
(……なんだよ、こいつ)
押しつけがましいわけじゃない。ただ、その瞳は心配げに揺れていて、真っ直ぐだった。
うざい、でも――放っておけない温度をしていた。
『うざっ』
そう返しながらも、俺はその手を振り払うこともできずにいた。
気づけば、言われるがまま保健室に連れて行かれていた。
*
彼女の手が、ガーゼを取って、俺の傷口に当てる。
「いっ……」
「ごめん、沁みた?もうすぐ終わるから、我慢してね」
「べっつに、痛くねーし」
言いながら、少しだけ涙が滲んでた。
「ふふ」
「笑うなよ」
「ごめんね?…可愛くて」
「は?」
予想外の言葉に、拍子抜けした声がでる。そんなこと、こんな見た目の奴に言った人初めてだった。
笑われて、ムカついて、でもその笑顔はやけに綺麗で――知らない間に、見惚れてた。
「アンタ、俺、こんななりなのに怖くねーの?」
「別に、怖くはない、かな?ていうか、敬語。あなた、一年生でしょ?その上履きの色。私先輩なんですけど?」
(……先輩、ね)
女に“敬語”なんて使ったことねーけど。 この人には、少しだけ頭が上がらなかった。
「……ふーん、先輩なんだ。…ねえ、名前、教えてよ」
「またそんな口の聞き方…。深雪詩乃だよ。こう見えて3年生なんだからね」
「みゆき、しの……」
名前を呟いた瞬間、なぜか胸の奥がジンとした。覚えた。音の響きごと、全部。
「君は?」
少し迷ったけど、ちゃんと答えた。
「久遠(くおん)湊」
「久遠くんね…。よし、包帯おっけー」
「…意外と上手じゃん、包帯巻くの」
「意外と…?」
「褒めてるから!こんな言い方しかできねーの!」
照れ臭くて、うまく言えない。
そんな俺をみて、また彼女が笑った。
帰り際。
ドアを開けて、出て行こうとしたとき、なぜか、名残惜しい気持ちになった。最後に、何か伝えたくなって、俺のほうから口を開いた。
「……ありがと。詩乃、先輩」
たったそれだけの言葉が、 何よりも素直な、俺の“心の始まり”だった。
先輩は、少し驚いたように目を見開いて、「またね。久遠くん。」と、フワッと笑った。
ーーーその笑顔が、綺麗で眩しくて忘れられなかった。
* * *
その日から、学校に行く回数が少しずつ増えた。あの人にまた会えるかもしれない――ただ、それだけの理由で。
「久遠くん、またちゃんと学校きてる」
「ついに更生したのかな?」
そんな周囲の声も、不思議と気にならなくなった。
三年と一年じゃ教室も遠いから、簡単には会えなかったけど。
それでも、ある日の放課後。
いつもの帰り道で、偶然、彼女を見かけた。制服のシルエットを見た瞬間、心臓がバクバクとうるさく鳴った。
(いた。……やっと、みつけた)
そう思ったのも束の間――
「詩乃!」
駆け寄ってきた男子の声が、風に溶けて響いた。
「圭介、もー遅い」
「ごめんごめん! お詫びに好きって百回言うから!」
「なにそれ。好きが軽くなるからやめて」
呆れたように笑って、でも、心底幸せそうな顔で。彼女はその男と手を繋いで、並んで歩いていった。
……ああ、そうか。
最初から、俺には――近づく資格すら、なかったんだ。
ただあの日、 傷ついた俺に、あたたかな優しさをくれた人。
でも、気づかないうちに俺は、手の届かないものを欲しがっていたのかもしれない。