忘れられない瞳の先で

第8章「雨の帰り道」

 その日の残業は、書類整理で遅くなった。
 オフィスを出ると、窓の外には細かい雨が降りしきっていた。
 街灯の光に照らされて、雨粒が白くきらめく。

「……傘、持ってない」

 ロッカーの中に置き忘れてきたことを思い出し、ため息をつく。
 仕方なくカバンを抱えて、濡れるのを覚悟で外に出た。

 冷たい雨粒が髪と頬に落ち、すぐに制服のジャケットを濡らしていく。
 一歩進むたびに、心の奥がじわじわと痛む。

 ――由梨さんに言われた言葉が、頭から離れない。
 「拓也には近づかないで」
 やっぱり、私は身を引くしかない。

 気づけば、視界がにじんでいた。
 涙か雨か、自分でも分からない。
 ただ、前を向くのがつらくて、俯いたまま歩き続けた。

 その時だった。

「……片山」

 突然、頭上に影が差し込む。
 顔を上げると、差し出された黒い傘が雨を遮っていた。
 そして、その傘を持つのは――拓也だった。

「な、んで……」
「濡れて歩いてたら、すぐ風邪ひく」

 低く抑えた声が、雨音に混じって耳に届く。
 拓也は無言で傘をこちらに傾け、自分の肩を濡らしている。

「大丈夫、ですから……自分で――」
「大丈夫そうには見えない」

 静かな言葉に、胸が揺れる。
 私の頬を濡らす雫を、拓也は雨と思っているのか、それとも――。

「……ほら、行くぞ」

 傘の下に導かれるように、私は拓也と並んで歩き出した。
 けれど、隣を歩く彼に視線を向けることはできない。
 胸が熱くなりすぎて、息が苦しかった。

 雨に濡れたアスファルトが街灯に反射し、二人の影を長く伸ばしていた。
 それは、近づきそうで決して触れ合わない影――まるで今の私たちのように
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