秘密の婚約者は冷徹専務 ―契約から始まる社内トライアングルと、切ない溺愛―

極秘の婚約発表

ゴールデンウィーク明け、社内は朝からざわついていた。

「見た？昨日の速報！」

「もちろん！我が我孫子ホールディングスの御曹司、あの雄大専務が婚約だって！」

「しかもお相手は“非公開”なんでしょ？どういうこと？普通、令嬢の名前とか出るじゃない？」

オフィスの空気は、パソコンのキーボード音よりも小声の噂で満たされていた。
メールの返信もそっちのけで、社員たちは椅子を寄せ合い、声を潜めては囁き合う。

「海外の富豪令嬢説！」

「いやいや、実は政略で政治家の娘って話も！」

「でもさ、あの専務がわざわざ名前を隠すなんて……怪しくない？」

「……まさか、社内恋愛？」

「ははっ、まさか。秘書課とか？そんなドラマみたいなこと――」

笑いがこぼれ、空気が軽く揺れた。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、ペンを持つ手がきゅっと強ばった。

――新人秘書、白木鈴子。

彼女こそが、“極秘婚約者”。
だが、もちろん口に出せるはずもない。

「……っ」

小さく息をのみ、鈴子は俯いて表情を隠した。
心臓はばくばくと耳の奥で鳴り続ける。

（落ち着け……。普通にしていればいい。私なんか、誰も気にしない。いつも通りに……！）

机の上に並べられた資料の束。
一枚一枚に目を落とすふりをするが、文字は視界に入ってこない。
震える指先に、自分でも苦笑しそうになる。

――そのとき。

「白木」

低く通る声が、空気を裂いた。
振り向いた先には、スーツ姿で颯爽と歩み寄る専務――我孫子雄大の姿。

一歩進むごとに、周囲の空気が引き締まっていく。
社員たちの噂話は瞬時に途切れ、背筋を伸ばす音が連鎖する。

「今日の役員会の資料は？」

冷静な声音。
視線は鋭く、威圧感を伴う。
鈴子の背筋も、無意識に凍りついた。

「は、はいっ！こちらに……」

震えを押し殺し、両手で資料を差し出す。
雄大は無言でそれを受け取り、ページを一瞥すると――ちらりと彼女に視線を投げた。

一瞬。
誰にも気づかれないような僅かな仕草で、目元だけがふっと緩んだ。

「……よくやってるな」

低く、柔らかな声。
普段の冷徹な専務とは違う響き。

「っ……！あ、ありがとうございます」

熱が一気に頬から耳へ広がり、鈴子は慌てて視線を落とした。
ただの上司と部下のやり取り。
誰の目にも、そう映っているはず。

――だが、自分にとっては、心臓を突き破るほどの秘密のやり取り。

（だめ、だめ……！少しでも怪しまれたら、全部終わり……！）

噂好きな社員たちの囁きが、再びオフィスを覆っていく。
けれど誰も気づかない。

“噂の婚約者”が、すぐそこに座っていることを。
――そして、冷徹な専務の視線が、ほんのわずかに彼女にだけ柔らかいことを。

秘密の婚約は、まだ始まったばかりだった。