秘密の婚約者は冷徹専務 ―契約から始まる社内トライアングルと、切ない溺愛―

突然のデート

朝の住宅街に、場違いなほど重厚な黒塗りの高級車が停まった。
低く唸るエンジン音が止むと、近所の犬まで首を傾げて静まり返る。

「え……なに、あの車……」

「すごいわね、芸能人でも来たのかしら」

犬の散歩をする人々や近所の奥様方が、ちらちらと振り返り、足を止めて囁き合う。
車体に映る朝日がぎらりと光り、住宅街の空気だけが妙に張り詰めていった。

「……う、うそ……なんでここにこんな車が……」

玄関先に立った鈴子は、洗濯かごを抱えたまま固まった。
次の瞬間、運転席から降りてきたのは、冷ややかな眼差しの我孫子雄大専務だった。

「……っ!」

息を呑む鈴子の前で、長身の彼は迷いなく歩み寄る。
スーツ姿ではなく、カジュアルなジャケット――それなのに隙は一切ない。

「おはよう、白木」

低く落ち着いた声が、住宅街の静けさを切り裂いた。

「お、おはようございます……あの、どうしてここに――」

問いかけを遮るように、雄大は車のドアを開け、無造作に言い放つ。

「婚約者として、休日に一度は並んで歩いておく必要がある」

「……へ?」

あまりに唐突で、洗濯かごを落としそうになる。

「きちんと世間に俺たちの“形”を示しておく必要がある」

その瞳は冷たく、揺らぎひとつ見せない。

「で、でも……今日は洗濯とか、掃除とか……」

慌てて言い訳を並べる鈴子。

「却下だ」

短く鋭い一言。

「っ……!」

「契約を忘れたか?俺とお前は“婚約者”だ。休日に一度も一緒の姿を見せないのは、不自然だろう」

――婚約者。

胸の奥がどくんと跳ねる。

(そうだ……これは“契約”。家族の借金を肩代わりしてもらう代わりに、私は……)

逃げ道を探す暇もなく、雄大の視線が鋭く射抜いてくる。
一切の反論を許さぬ冷徹さ――それでも、心臓が苦しいほど脈打っているのはなぜだろう。

「早く乗れ。……見られているぞ」

促され、はっとして周囲を見渡す。
案の定、近所の奥様方が数人、道端でひそひそと話している。

「白木さんちに……誰?もしかして……」

「まさか、彼氏?でもすごい人そうよ……」

視線が一斉に自分に突き刺さり、顔が一気に赤くなる。
頬が熱い。呼吸までぎこちなくなる。

「……わかりました。行きます……」

小さく呟き、観念したように足を踏み出す。
ドアに手をかけると、すぐさま雄大の手が添えられ、スッと開かれる。

「……っ」

慣れないエスコートに胸が跳ね、鈴子はそっと車内に身を滑り込ませた。

バタン、と高級車のドアが閉まる音が、妙に大きく響く。
外のざわめきが遠ざかり、車内に広がるのは、彼の存在感だけ。

(どうしよう……休日の朝から、専務と二人きりなんて……)

鼓動は不自然なほど早いリズムを刻み、両手は落ち着かず膝の上で絡まる。
そんな鈴子を、隣に腰かけた雄大がちらと見やった。

「顔が赤いぞ。……体調、悪いのか?」

「い、いえっ……ち、違います……!」

「ならいい」

淡々とした声。なのに、見透かされているようで視線を逸らせない。

車が静かに発進する。
休日の朝、ありふれた住宅街の風景が窓の外に流れていく――。
だが鈴子の胸中は、日常からかけ離れた鼓動に支配されていた。
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