秘密の婚約者は冷徹専務 ―契約から始まる社内トライアングルと、切ない溺愛―

暴走する噂

オフィスの空気が、微妙にざわついていた。
コピー機の音、電話のベル、キーボードを叩く軽快なリズム――普段なら仕事の音で満ちているはずの秘書課のフロアに、今日は妙なひそひそ声が入り込んでいる。

「ねえ、聞いた？この前の夜会で……」

「そうそう、雄大専務が白木さんをエスコートしてたって」

「まさか、雄大専務のお相手って……」

――まただ。
鈴子は背筋をこわばらせ、目の前の資料に必死に視線を落とした。
紙の文字を追っているのに、内容は頭に入ってこない。
心臓の鼓動だけがやけに大きく響き、耳の奥で鳴り続けている。

（違う……違うのに。ただの契約なのに、そんな……）

「でも彼、婚約者の名前は明かしてないでしょ？そう考えると……」

「秘書課から選ばれたとか？」

笑い混じりの声。
その笑いが、鈴子には棘のように刺さった。

（お願い……やめて。これ以上、私を見ないで）

机の上のペンを強く握りしめる。手が震えているのが自分でもわかる。
視線を落とし続ける彼女の頭上を、突然――低い声が切り裂いた。

「くだらない噂だ」

一瞬にしてフロアが凍りつく。
誰もが振り返った先に、雄大の姿があった。冷徹な眼差し、揺るぎない声音。

「私と彼女は関係ない」

その言葉は、刃のように鋭く、容赦なく響いた。
噂をしていた社員たちは顔を見合わせ、慌てて散り散りに席へ戻っていく。
残された静寂が、逆に痛々しいほどだった。

（……そうですよね。契約ですもの。関係ないって言われても、仕方ない）

胸の奥にずしんと重いものが落ちる。
――けれど、どうしてだろう。
「関係ない」と切り捨てられただけなのに、涙がにじみそうなほど、胸が抉られていく。

その夜。
チャイムの音に驚き、慌てて玄関へ向かう。
扉を開けた瞬間、息が詰まった。

「……雄大さん」

そこに立っていたのは、無表情の雄大。
街灯の光を背に、影を纏ったようなその姿は、現実感がなく、夢の中のように見えた。

「どうして――」

問いかけるより早く、一歩踏み込んできた彼は、ためらいなく扉を閉める。
密やかな音が、ふたりだけの世界を閉ざした。

「昼間のこと、気にしているだろう」

低い声。
近い。あまりにも距離が近くて、息が触れる。

「……いえ、仕方がありません。私たちは……」

声が震える。唇も、膝も、抑えられない。
彼の瞳は冷たいのに、その奥には熱を秘めた光がちらついていた。

雄大はゆっくりと歩を進め、鈴子を壁際へ追い詰める。
背中に冷たい壁が触れた瞬間、逃げ場が消えた。

「社内で言えるわけがないだろう」

吐息混じりの声が耳元に落ちる。

「誰のものかなんて、口にした瞬間――お前を守れなくなる」

肩に大きな掌が置かれる。
強いのに、妙に優しい。逃げ道を塞ぐようでいて、同時に守られているようにも感じる。

「俺のものだと本気で言えるのは……お前だけだ」

低く、熱を帯びた囁き。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

（違う……契約なのに。演技のはずなのに……）

なのに、雄大の声が胸の奥を熱く震わせる。
冷徹さの裏に潜む独占欲。
――それは、彼が誰よりも彼女を強く求めている証のように響いた。

「……雄大さん……」

名前を呼ぶ声が、夜の静けさに吸い込まれていく。
もう目を逸らせない。
この人の瞳に囚われている。

恐ろしいほどに、抗えないほどに。

――愛おしい。

それは、契約の境界をあっさりと越えてしまう危うさを孕んでいた。