秘密の婚約者は冷徹専務 ―契約から始まる社内トライアングルと、切ない溺愛―

秘密の露見

廊下に夜の静けさが満ちていた。
蛍光灯の光は既に落とされ、非常灯の緑がかすかに床を照らしている。人の気配が消えた本社のフロアは、昼間の喧噪が嘘のようにひっそりとしていた。

秘書課のフロアを抜け、執務室の前に差しかかった颯真は、不意に耳に届いた声に足を止めた。

「……約束どおり、君の家の借金はすべて返済した」

低く、よく通る声。雄大の声だ。
普段と変わらぬ冷徹な響きなのに、どこか強い確信を帯びている。

「……はい。本当に……ありがとうございました」

続いて聞こえたのは、鈴子の小さな声。
その声音は感謝と戸惑いが入り混じり、震えているようにも聞こえた。

(借金……?返済……?)

颯真の眉がぴくりと動く。
理解できない言葉が脳裏を駆け巡り、心臓の鼓動がひときわ強く鳴った。

中では、会話が途切れることなく続いていた。

「あと一ヶ月。関係を続けてくれればいい」

雄大の淡々とした声。
それに応じて、鈴子が思わず聞き返す。

「……一ヶ月?」

「そうだ。親が長期で海外に滞在する予定がある。その間に政略結婚の話は立ち消える。俺にとっても、君にとっても都合がいい」

短く区切られる言葉。雄大の声は冷たいはずなのに、どこか強い圧を孕んでいた。

その瞬間、沈黙が落ちた。
耳を澄ませば、鈴子の小さな呼吸音さえ聞こえる。

そして――ためらいがちな声が、部屋の中に落ちた。

「……つまり、契約は……そのときまで、ですね」

――契約。

その言葉が、颯真の耳に鋭く突き刺さった。
背中が強張り、思わず壁に寄りかかる。

(……契約?雄大と……鈴子ちゃんが?)

頭の中で言葉が何度も反響する。
答えの出ない問いが胸の奥で渦巻く。

中では、まだ会話が続いていた。

「……専務、本当に……それでいいんですか」

「いいも悪いもない。最初から決まっていたことだ」

鈴子が小さく息を呑む音がはっきりと聞こえた。
その反応が、颯真の胸にさらに重くのしかかる。

(雄大は……鈴子ちゃんを“契約”で縛って、利用している……)

拳を強く握りしめた。
自分でも爪が掌に食い込む痛みを感じるほどに。

知らなければよかった。
だが、一度耳に入ってしまった真実は消えない。

夜の廊下はひどく冷え込んでいた。
それでも、颯真の胸の奥はそれ以上に冷たく、苦しく、重かった。

(鈴子ちゃん……君は本当に、それでいいのか……?)

沈黙の廊下に、誰にも届かぬ問いが消えていった。

「……あと一ヶ月ですね。……借金の返済、本当に、ありがとうございます」

鈴子の声を背にしながら、颯真はその場を後にした。
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