秘密の婚約者は冷徹専務 ―契約から始まる社内トライアングルと、切ない溺愛―

隠れた想いの行方

夜の本社フロアは、息を潜めたように静まり返っていた。
廊下の蛍光灯はすでに落とされ、わずかに残された明かりはわずかな部屋だけ。

机の上に散らばっていた書類をまとめ、鈴子はそっと綴じ紐を締める。

「……これで、今日の分の資料は終わりですね」

小さく吐息をこぼす声は、夜の静けさに溶け込んでいった。

「ありがとう。君がいてくれると、本当に助かるよ」

昨夜のことを思い出し、胸が締めつけられる。鈴子は意を決して声を絞り出した。

「颯真専務、昨夜はすみません。突然泣いてしまって……ご迷惑でしたよね」

「いや、そんなことないよ」

デスクの向こうから微笑む颯真。
その口元はいつも通り穏やかだったが、鈴子はふと違和感を覚える。

――目だ。
朗らかな笑みを形づくりながらも、瞳の奥に翳りがある。
いつも社員たちを安心させる光をたたえた眼差しが、今はどこか寂しげに揺れている。

「颯真専務……？」

首を傾げ、問いかける声に、颯真は一瞬だけためらった。
視線を机に落とし、指先でペンを弄びながら、やがて深く息をつく。

「……ずっと、好きだった」

唐突な告白に、鈴子の心臓が強く跳ね上がった。

「――え？」

声が裏返る。信じられない言葉が、静かな空気を震わせる。

颯真は苦笑を浮かべ、肩を落とすように続けた。

「けれど……弟の婚約者だから。どうしても踏み込めなかった」

静かな声。
それは軽い冗談ではなく、長い時間胸にしまい込んでいた本音だとすぐにわかる。

「颯真専務……」

「でも。君が幸せなら、それでいい」

そう言って微笑む顔は、温かさに満ちていた。
けれど、その笑みに隠しきれない切なさが、鈴子の胸を容赦なく締めつける。

颯真はそれ以上言葉を重ねず、静かに立ち上がる。
背を向ける動作はゆっくりで、まるで未練を振り切るかのようだった。

「じゃあ、今日はもう帰るよ」

穏やかな声。振り返らずに歩み出すその背中が、鈴子の視界から少しずつ遠ざかっていく。

「……」

声をかけたいのに、唇が動かない。
伸ばしたい指先も、宙を掴むだけで凍りついたまま。

残された静かな部屋に、時計の針の音だけが響く。
――まるで、自分の胸の痛みを刻むかのように。