秘密の婚約者は冷徹専務 ―契約から始まる社内トライアングルと、切ない溺愛―

冷徹な上司と優しい上司

朝の秘書課。
まだ人の出入りも少ない時間、コピー機の音と書類の束が机を行き交う気配だけが静かに響いていた。
新人秘書の鈴子は、慣れない手つきでファイルをめくり、必死に数字を確認していた。

(間違えちゃいけない……絶対に。昨日も先輩に注意されたばかりだし……)

そう念じながらページを綴じかけたとき――。

「ここ、数字が一桁ずれている。確認不足だ」

低く冷静な声が、背後から落ちてきた。
胸が跳ね上がり、振り返る。そこに立っていたのは我孫子雄大専務。
鋭い眼差しは、一切の甘さを許さない。

「す、すみません……すぐに修正いたします」

手が震え、綴じかけたファイルが少し滑り落ちる。慌てて拾い上げながら頭を下げる。

「“すみません”じゃない。二度と起こすな。何事も、正確さが絶対だ」

冷徹な声音に、胸が締めつけられる。
鋭く、逃げ場を与えないその言葉。
けれど――なぜか、その奥底に「信頼しているからこそ」という気配が、かすかに滲んでいる気がして。

(怖い……でも、どうしてだろう。背を向けて逃げられない。専務に見られていると、体が勝手に正したくなる……)

そんな時――。

「おっ、鈴子ちゃん。朝から大変だな」

朗らかな声が割り込んだ。
秘書課に顔を出したのは、総務担当専務の我孫子颯真だった。

「雄大、あんまり脅すなよ。俺の秘書が固まっちゃうだろ?」

「仕事に“脅す”も“甘やかす”もない。事実を指摘しただけだ」

「そう言うけどさ」

軽く肩を竦め、颯真は鈴子の机に近づいてくる。
その歩み方すら柔らかで、張り詰めた空気を和らげるかのようだ。

「俺の専属なんだから、肩の力抜いてやってくれ。鈴子ちゃん、無理してない?」

ふと覗き込まれ、心臓が跳ねた。
近い距離。春の陽だまりみたいに柔らかな瞳。
真剣に心配してくれているのが伝わって、頬が熱くなる。

「……だ、大丈夫です」

「そう?困ったらいつでも声かけてね。新人のうちは失敗して当たり前なんだから」

にこっと笑う。
その笑顔に胸が温かくなるのを止められなかった。

一方で――隣に立つ雄大は、何も言わず厳しい視線を向け続けている。
その視線は「甘えるな」と告げているようで、同時に「期待している」とも感じられて。

(どうして……。怖いのに、厳しいのに……あの眼差しを裏切りたくないって思ってしまう。でも、颯真専務に見つめられると、安心して涙が出そうになる……)

雄大の冷徹な鋭さと、颯真の朗らかな優しさ。
まるで正反対の二人。

――どちらを見ても、胸の奥がざわめいてしまう。
戸惑いを抱えたまま、鈴子は机上の書類に視線を落とした。
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