婚約解消されたので温室の管理人になったら、眠れない王子の居眠り番になりました。
第4話 サシェをどうぞ
すぅすぅと寝息が聞こえてくる。
エルザの膝を枕にして、青年はすっかり眠ってしまっていた。
(どうしましょう)
起こそうとして青年の顔色を見て、エルザは躊躇った。
顔立ちは整っているのに、その美貌を曇らせるようなものが目の下にある。
濃い隈だ。
もう何日も――いや、何週間や何カ月なんて生易しいものではない、まるで何年もまともに寝られていないかのような、こびりついた隈。
(起こせないわ)
せっかくぐっすり眠っているのに、起こすのは忍びない。
(……それに、やっぱりどこかで見たことのある顔だわ)
思い出せそうで、思い出せない。
一度、挨拶をしたことがある人はだいたい覚えているけれど、彼の名前は記憶にない。きっとどこかで顔をみかけたことがある人なのだろう。
服装は貴族が着るような高級な生地に、なぜか暗闇に溶け込めそうな黒いマントを纏っている。
少なくとも平民ではなさそうだ。
(うーん、わからないわ)
じーと、青年の顔を見る。
歳はエルザと同じか少し上。黒髪はよくある感じだけれど、あのカレンデュラのように鮮やかなオレンジ色の瞳は、一度見たら忘れられない輝きを宿していた。
(それにしても、よく眠っているわ)
ぐっすりと眠っている寝姿を見ていると、エルザの口から大きなあくびが出た。
「なんだか、私も眠くなってきちゃった」
襲ってきた眠気のせいで、瞼がどんどん落ちていく。
見ず知らずの青年が膝の上で寝ているのにもかかわらず。
寝てはいけない、寝てはいけない。そう思えば思うほど、眠気はどんどん酷くなっていく。
瞼をパチパチとしてどうにか眠気を飛ばそうとするが、一度やってきた眠気を我慢することはできなかった。
うとうとと、エルザの瞼はどんどん重くなっていく。
そして――。
「………はっ!」
再び目を開けたとき、眼前にあったのはあのカレンデュラのように鮮やかなオレンジ色の瞳だった。
オレンジ色の瞳から視線を逸らすことができずに見つめ合っていると、先に動いたのは青年のほうだった。
「君は、何者だ?」
ずいっとさらに身体を近づけてきた青年に、近距離のまま問われる。
「ミツレイ伯爵家の長女、エルザです」
「ミツレイ伯爵家? ……伯爵令嬢がどうしてここに?」
「温室の管理人を任されておりまして」
「温室?」
青年が周囲を見渡して温室を確認すると、納得したようにうなずいた。
「そういえば温室の管理人に、まだアカデミーを卒業したばかりの令嬢が就いたという話を聞いたな。君が、そうなのか?」
「はい」
「そうか。ところでもう夜も遅い時間だが、こんなところでなにをしているんだ?」
「なにって……」
じっとカレンデュラのようなオレンジ色の瞳を見つめる。
彼がエルザの膝の上で寝始めたから、身動きが取れなかったのを知らないとは言わせないぞ、と伝えるように。
青年は訝しむ顔をしていたが、ついさきほどのことを思いだしたのか、気まずそうな顔になる。
「オレが君の膝の上で寝ていたせいだよな。……すまない」
「いえ、私も眠気につられて寝てしまいましたし」
「令嬢になんてことをしてしまったんだろうな。……だが、こんなにもぐっすり眠れたのは、ずいぶんと久しぶりだ」
「いつもは眠れないのですか?」
せっかく整った顔をしているのに、青年の目の下には濃い隈がある。それが彼の美貌を曇らせていて、一見すると陰気な雰囲気を漂わせてしまっている。
じっと見つめて問いかけると、彼は言い淀むように目を逸らしたが、すぐに観念してうなずく。
「初対面の君に話すことではないのだが、実はずっと眠れないんだ。理由は、聞かないでほしいのだが」
誰にでも、聞かれたくない秘密のひとつやふたつはあるだろう。
彼が目の下に隈を作るほど寝られない理由は気になったものの、深く問いかけるのは躊躇われた。
「今日も眠れずに庭を散歩していたら、こんなところまで迷い込んでしまったらしい。君には迷惑をかけてしまったな。……それにしても、いま思い出したが、オレは君のそばに近づいた瞬間、寝落ちたような気がするんだが……。何か、理由でもあるのだろうか」
首を傾げる青年の姿を見て、エルザはふとポケットに入れている、お気に入りのサシェがあることを思い出した。
常に一番好きなハーブの香りを感じていたくて、お守り代わりに入れているものだ。
「これのおかげかもしれません」
取り出したのは、手のひらサイズのサシェだった。中には乾燥したカモミールが入っている。
「これ、カモミールのサシェなんですけれど、カモミールにはリラックス効果があるんです。寝る前にお茶にして飲むと、ぐっすり眠れたりするんですよ」
「そうなのか。……だが、オレが感じた香りはそれではないような……」
青年はまだ納得していない様子だが、エルザには妙な確信があった。
青年がいきなり膝の上で眠ってしまい驚いたが、サシェの効果なら納得だ。
きっとずっと眠れていなかった青年は、ふと嗅いだカモミールの香りにつられて眠ってしまったのだろう。
エルザは手作りのサシェを、青年に押し付けるように渡した。
「これ、よかったらどうぞ。私の手作りなので、手続きとかは要りませんよ」
「しかし、これは君の大切なものなのではないか?」
「また作ればいいだけなので! それに、これは私よりも、あなたに必要だと思いますから」
目の下に隈を溜めている彼のことが心配だったからというのもある。
少しでも彼の睡眠の助けになれるのならと思って渡したのだが、青年はやや面食らった様子だった。
躊躇いながらも受け取った青年は、まるで初めてプレゼントを受け取った子供のような笑みを浮かべたあと、どこか緊張した面持ちで、「感謝する」と一言つぶやいた。
そしてもう夜遅いということもあり、その日はそれぞれ帰ることになった。
エルザの膝を枕にして、青年はすっかり眠ってしまっていた。
(どうしましょう)
起こそうとして青年の顔色を見て、エルザは躊躇った。
顔立ちは整っているのに、その美貌を曇らせるようなものが目の下にある。
濃い隈だ。
もう何日も――いや、何週間や何カ月なんて生易しいものではない、まるで何年もまともに寝られていないかのような、こびりついた隈。
(起こせないわ)
せっかくぐっすり眠っているのに、起こすのは忍びない。
(……それに、やっぱりどこかで見たことのある顔だわ)
思い出せそうで、思い出せない。
一度、挨拶をしたことがある人はだいたい覚えているけれど、彼の名前は記憶にない。きっとどこかで顔をみかけたことがある人なのだろう。
服装は貴族が着るような高級な生地に、なぜか暗闇に溶け込めそうな黒いマントを纏っている。
少なくとも平民ではなさそうだ。
(うーん、わからないわ)
じーと、青年の顔を見る。
歳はエルザと同じか少し上。黒髪はよくある感じだけれど、あのカレンデュラのように鮮やかなオレンジ色の瞳は、一度見たら忘れられない輝きを宿していた。
(それにしても、よく眠っているわ)
ぐっすりと眠っている寝姿を見ていると、エルザの口から大きなあくびが出た。
「なんだか、私も眠くなってきちゃった」
襲ってきた眠気のせいで、瞼がどんどん落ちていく。
見ず知らずの青年が膝の上で寝ているのにもかかわらず。
寝てはいけない、寝てはいけない。そう思えば思うほど、眠気はどんどん酷くなっていく。
瞼をパチパチとしてどうにか眠気を飛ばそうとするが、一度やってきた眠気を我慢することはできなかった。
うとうとと、エルザの瞼はどんどん重くなっていく。
そして――。
「………はっ!」
再び目を開けたとき、眼前にあったのはあのカレンデュラのように鮮やかなオレンジ色の瞳だった。
オレンジ色の瞳から視線を逸らすことができずに見つめ合っていると、先に動いたのは青年のほうだった。
「君は、何者だ?」
ずいっとさらに身体を近づけてきた青年に、近距離のまま問われる。
「ミツレイ伯爵家の長女、エルザです」
「ミツレイ伯爵家? ……伯爵令嬢がどうしてここに?」
「温室の管理人を任されておりまして」
「温室?」
青年が周囲を見渡して温室を確認すると、納得したようにうなずいた。
「そういえば温室の管理人に、まだアカデミーを卒業したばかりの令嬢が就いたという話を聞いたな。君が、そうなのか?」
「はい」
「そうか。ところでもう夜も遅い時間だが、こんなところでなにをしているんだ?」
「なにって……」
じっとカレンデュラのようなオレンジ色の瞳を見つめる。
彼がエルザの膝の上で寝始めたから、身動きが取れなかったのを知らないとは言わせないぞ、と伝えるように。
青年は訝しむ顔をしていたが、ついさきほどのことを思いだしたのか、気まずそうな顔になる。
「オレが君の膝の上で寝ていたせいだよな。……すまない」
「いえ、私も眠気につられて寝てしまいましたし」
「令嬢になんてことをしてしまったんだろうな。……だが、こんなにもぐっすり眠れたのは、ずいぶんと久しぶりだ」
「いつもは眠れないのですか?」
せっかく整った顔をしているのに、青年の目の下には濃い隈がある。それが彼の美貌を曇らせていて、一見すると陰気な雰囲気を漂わせてしまっている。
じっと見つめて問いかけると、彼は言い淀むように目を逸らしたが、すぐに観念してうなずく。
「初対面の君に話すことではないのだが、実はずっと眠れないんだ。理由は、聞かないでほしいのだが」
誰にでも、聞かれたくない秘密のひとつやふたつはあるだろう。
彼が目の下に隈を作るほど寝られない理由は気になったものの、深く問いかけるのは躊躇われた。
「今日も眠れずに庭を散歩していたら、こんなところまで迷い込んでしまったらしい。君には迷惑をかけてしまったな。……それにしても、いま思い出したが、オレは君のそばに近づいた瞬間、寝落ちたような気がするんだが……。何か、理由でもあるのだろうか」
首を傾げる青年の姿を見て、エルザはふとポケットに入れている、お気に入りのサシェがあることを思い出した。
常に一番好きなハーブの香りを感じていたくて、お守り代わりに入れているものだ。
「これのおかげかもしれません」
取り出したのは、手のひらサイズのサシェだった。中には乾燥したカモミールが入っている。
「これ、カモミールのサシェなんですけれど、カモミールにはリラックス効果があるんです。寝る前にお茶にして飲むと、ぐっすり眠れたりするんですよ」
「そうなのか。……だが、オレが感じた香りはそれではないような……」
青年はまだ納得していない様子だが、エルザには妙な確信があった。
青年がいきなり膝の上で眠ってしまい驚いたが、サシェの効果なら納得だ。
きっとずっと眠れていなかった青年は、ふと嗅いだカモミールの香りにつられて眠ってしまったのだろう。
エルザは手作りのサシェを、青年に押し付けるように渡した。
「これ、よかったらどうぞ。私の手作りなので、手続きとかは要りませんよ」
「しかし、これは君の大切なものなのではないか?」
「また作ればいいだけなので! それに、これは私よりも、あなたに必要だと思いますから」
目の下に隈を溜めている彼のことが心配だったからというのもある。
少しでも彼の睡眠の助けになれるのならと思って渡したのだが、青年はやや面食らった様子だった。
躊躇いながらも受け取った青年は、まるで初めてプレゼントを受け取った子供のような笑みを浮かべたあと、どこか緊張した面持ちで、「感謝する」と一言つぶやいた。
そしてもう夜遅いということもあり、その日はそれぞれ帰ることになった。