婚約解消されたので温室の管理人になったら、眠れない王子の居眠り番になりました。

第8話 ホッとする味

 自分の寝室に戻ったダリは、ベッドに仰向けになって寝転ぶとオレンジ色の瞳でぼんやりと天井を見上げた。

(嘘を、ついてしまったな)

 本来なら自分の身分を隠すことなく、正直に伝えるべきだった。
 それなのにどうしてかわからないけれど、自分の正体を知られたくないと思ってしまった。

 エルザ・ミツレイ伯爵令嬢。
 彼女に出逢ったのは偶然だった。

 公務が終わり、また眠れない夜が来る前に日課の散歩をしていた時に、どこからか鼻孔をくすぐるようないい香りが、かすかに漂ってきた。
 ここ数日はまったくと言っていいほど眠れていなかったものだから、まるでその香りに導かれるようにして歩いていた。

 その先に、彼女がいた。
 寝ぼけてぼんやりとした視界で、誰かいるように感じたけれど、鼻孔をくすぐる甘い香りに耐え切れずに、ダリはすぐに意識を失っていた。
 眠っていた、と気づいた時にはもう彼女の膝の上にいて、ずいぶんと慌てたのを思い出す。
 ダリを膝枕しながらも、彼女はすぅすぅと寝息を立てていた。

 身長が高いダリとは反対に、彼女は小柄だった。
 おそらく貴族の令嬢。
 なぜおそらくなのかというと、彼女が貴族令嬢にしては質素な身なりをしていたからだ。
 見た目を着飾ることを誇りとしている他の令嬢とは異なり、彼女の姿はまるで動きやすさを重視したようでもあった。

 そよ風により、ふんわりとした栗色の髪と、長い睫毛が揺れている。
 そんな彼女の姿につい見入っていると、長い睫毛が震えて瞳が開いた。
 白に近い黄色の瞳が、ダリを驚いたように見つめた。

「君は、何者だ?」

 咄嗟に、疑うような台詞を言ってしまった。

(あの時は、不思議だった)

 いつもならそばに人が――それも、見ず知らずの他人がいたら、まったく眠ることができなかったのに。
 なぜかわからないけれど、彼女のそばだと平気だった。

 突然自分が眠った理由はわからないけれど、彼女はカモミールの効果を教えてくれた。
 過去にハーブを試した時は効かなかったけれど、彼女の持っていたものなら自分にも効く気がした。

 大切だろう、カモミールのサシェ。
 それを彼女から貰った日の夜は、少しだけど眠れたのだ。

 それからは春だということもあり、また公務が忙しくなり、従者に頼んで温室にカモミールを受け取りに行ってもらっていた。
 夜、カモミールのサシェを枕元に置きながら就寝していたが、彼女のそばで寝てしまった時のようには眠れなかった。

 寝不足は蓄積していき、一週間ほどでいつもみたいに頭に靄がかかったような眠気に襲われた。それなのに眠れない。ずっと、その繰り返しだ。
 このままではだめだと思って、ダリはエルザに会いに行った。
 そして、会った瞬間に、意識を失う睡魔に襲われたのだった。

 そこでダリは気づいたのだ。
 エルザの香りが、ダリに睡魔をもたらすのを。
 彼女のそばにいると、子供の頃のようにぐっすり眠ることができた。頭が冴えわたるほどではないけれど、彼女のそばであればこれからも眠ることができるかもしれない。

 もう一度、会いに行きたかった。
 正体を知られたら、もう会えないかもしれない。
 だから、咄嗟に自分の素性を隠してしまったのだろう。

 彼女はダリの目の下のこびりついたような濃い隈を見ても、嫌がるようなそぶりを見せなかった。
 むしろ真っ直ぐな瞳で、自分を見つめてきた。

(他の貴族たちとは大違いだったな)

 十三年前、まだ八歳だったダリはとある事件に巻き込まれた。
 それにより生死を彷徨ったダリは、まともに眠れない日々を過ごしてきたのだ。

 目の下にこびりついた、誰もが眉を顰めるほど濃い隈。
 それまでの無邪気さは形を潜め、必要以上に人と関わることをしなくなったダリが、影で笑われるようになったことも知っている。
 それでもダリの身分は唯一のため、ほとんどの貴族たちは取り入ろうと外面を偽って接してくる。
 ダリもそれがわかっているので、当たり障りなく接する術を覚えた。

 だけど、彼女は違った。
 ダリのことを見た目だけで見てくる令嬢は、ダリの容姿を目にすると必ず眉を顰めたのに、エルザは真っ直ぐな瞳で見つめてくれたのだ。

(……そういえば、カモミールティーに安眠効果があると言っていたな)

 このままベッドに寝転がっていても、眠ることはできない。
 ダリは立ち上がると、寝室から隣の部屋に続いている扉を開けて中に入った。

 そこには通常ならあるはずがないものが設置されている。給仕室だ。
 とある事件により、人が作ったものを食べられなくなったダリのために、父が他言無用で作らせたものだ。

 パーティーや食事会などの社交の場以外は、ここで自分の食事を作っている。お茶を淹れるのも使用人ではなく、ダリ自身だ。
 もしこのことが他の貴族たちにバレたら、それこそ見た目と同じように馬鹿にされるだろう。

 洗練された手作業でお茶を淹れる。
 まずは、カモミールティーの香りを楽しむことにした。
 どこか林檎のような甘い香りを感じるが、彼女の香りとは違っていた。
 おそるおそるカップに口をつける。
 草のような味かと思ったがそんなことはなく、のどごしの良いすっきりと飲める味だった。もう少し甘味があれば、なおさら美味しく感じるだろう。

(ホッとする味だな)

 胸の内から温かくなる。
 これならすぐに眠れるのではないかと思って、ベッドに向かう。
 仰向けに寝転がり、目を閉じる。
 まるで全身を包むかのような、カモミールの香りを感じた。

「…………」

 さらにギュッと目を閉じる。
 羊を数えたり、無心になったり、どうにか眠れないか四苦八苦したが、眠気はやってこなかった。

 今日も眠れそうにもなかった。

(……そういえば、また来てくださいって、言われていたな)

 ダリの正体を知ったら、彼女は態度を変えるかもしれない。
 それでも、まだ少しの間だけでも、彼女のそばに居たかった。

(明日も行くか。温室に)

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