副社長と仮初めの指輪

プロローグ

 ホテルの大広間は、夜景を閉じ込めたようなガラス張りで、煌めくシャンデリアの光が人々の笑い声に揺れていた。
 私は本来、ここに来る予定なんてなかった。ただ同僚に「代理で行ってほしい」と頼まれ、断り切れずに立っているだけ。
 見合い結婚を前提としたパーティー――場違い感で心臓が暴れている。

 ワインを手にしても、口はほとんどつけられない。会場の隅でひっそり立つ私の前を、華やかなドレスやタキシードの人々が通り過ぎていく。
(早く帰りたい……)
 そう思った矢先、視線が絡んだ。

 黒のタキシードを纏い、冷ややかな雰囲気をまとった男が、一直線にこちらへ歩いてくる。
 氷川グループ副社長――氷川 蓮。テレビや社内報で見たことのある顔。その人がなぜ、私なんかに?

「君が……来てくれてよかった」
 落ち着いた声が、耳の奥に響いた。
「え?」
「婚約の件で話を、と」
「ま、待ってください! 私、ただの――」
 言いかけた瞬間、背後からフラッシュの光。記者か、参加者か、誰かが写真を撮ったのだ。

 周囲がざわめく。
 氷川副社長と“知らない女性”が親しげに話している。
 そんな噂の種になるのに、彼は少しも慌てなかった。むしろ、淡々と私の手首を取り、低く言う。
「状況はもう広まった。ならば――君に協力してもらうしかない」
「協力……?」
「婚約者として、隣に立ってほしい」
「こ、婚約者!?」
 声が裏返る。けれど彼の瞳は真剣そのものだった。

「合併交渉の最中だ。スキャンダルは命取りになる。君を巻き込んだ責任は僕が取る。その代わり――三か月間だけ、契約婚約者になってほしい」
 静かに告げられる条件。
 干渉はしない。仕事も生活も奪わない。ただ隣に立つことを求める。

 私は震える声で問う。
「……もし、断ったら?」
「君は“副社長の相手”として世間に名を残す。それを守れる保証は、なくなる」
 重い現実に、喉が詰まる。
 逃げ場のない場所で、私は彼の差し出す手を見つめた。

「――わかりました。三か月だけ、です」
 そう答えた瞬間、彼の指が私の指を包んだ。
 契約の始まりを告げる握手。
 華やかな会場の真ん中で、誰も知らない約束が結ばれた。
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