副社長と仮初めの指輪

第9章「同僚の告白未遂と雨」

 朝、天気予報のアイコンは小さな雲の下に斜線を引いていた。社内の窓はまだ乾いているのに、空はもう濡れた色をしている。私は白茶のロールオンを手首に一滴、深呼吸してからPCを立ち上げた。
 昨日のタウンホール以降、社内チャットの温度は落ち着きを取り戻している。とはいえ、画面の隅で“目”のスタンプがときどき跳ねるのを、油断せずにやり過ごす。

 十時、広報から一斉チャット。

『本日、社内での“描写”はナシ。動線は昨日と同じ。——七海』

 短い文面に、必要な配慮だけが詰まっている。私は「了解です」と返し、午前の庶務へ戻った。
 段ボールの隙間から紙の粉塵がふわりと立つ。左薬指の内側で“W.T.”が静かに触れる。丸く調整した輪は、今日も“ちょうどいい”。

 昼前、携帯にメッセージ。桜庭からだ。

『外、降り出した。昼、近場にする?』

『賛成。コンビニで買って会議室で食べよう』

『OK。飲み物、何がいい?』

『水』

『りょ』

 短い文字が往復して、胸の奥の硬さが少しだけほぐれる。雨脚は、ガラス越しに細く、次第に太く。窓に筋が描かれ始めた。

 十二時。会議室の小さなテーブルに、三人分のコンビニ弁当が並ぶ。島の先輩は電話で途中離脱。結果、私と桜庭だけが向かい合った。
 プラスチックの箸を割った音が、雨に吸い込まれていく。

「鯖、今日は無理だな」

「うん。代わりに鮭」

「それも好きだろ」

「よく覚えてるね」

「覚えられることは、覚えるよ」

 冗談めかした声色なのに、目は真面目で、私は箸先をそっと弁当へ落とした。白茶の香りは雨の匂いと混ざって、いつもより静かな輪郭を描く。

「……昨日、言えたんだって?」

「うん。怖いって」

「えらい」

「桜庭が言ってくれた“伴走”って、ああいうこと?」

「似てるけど、ちょっと違う」

「違う?」

「伴走ってさ、同じコースにいる、ってこと。ゴールの形は人それぞれだけど、隣の足音があると、走れる時ってあるだろ」

「……ある」

「うん。俺の足音は、邪魔?」

 箸が止まった。質問は軽く、でも真剣だった。答えられる言葉だけが、舌の上に残る。

「邪魔じゃない。むしろ、助かってる」

「よかった」

 桜庭はそれ以上、踏み込まない。コンビニの味噌汁をすすりながら、窓の雨筋を見ている。会議室の時計の針が、穏やかに進む。私は胸の奥で、“言えること”と“言えないこと”のラインを指でなぞった。

 午後、外は本降りになった。定時が近づく頃には、スマホに警報が入る。
 “大雨”。短い文字が、駅の電光掲示板の遅延情報と同じリズムで脈打つ。

 秘書室から連絡。

『本日、裏ゲートから駅へ向かうルートBは冠水でNG。ルートCをご利用ください。合流は不要』

『了解しました』

 了解、と打つ手は落ち着いている。——合流は不要。私は契約の線を、今日も自分の手でなぞる。

 定時。島のメンバーが先に帰っていき、桜庭だけがドアのところで振り返った。

「傘、持ってる?」

「忘れた」

「俺、長傘。駅まで一緒に行こう」

「悪いよ」

「俺が行きたいから」

 彼の言い回しはいつも、私の逃げ道をふさがない。私はうなずき、レインコートのフードを手にした。

 裏ゲートを出ると、雨は縦横無尽だった。街灯の光を裂いて落ちてくる。桜庭が傘をすっと広げ、自然に私の肩側へ寄せる。
 傘の骨に雨粒が打ちつけ、細かい音になる。二人の間に小さな屋根。そこにだけ、呼吸の温度が留まる。

「駅まで、十五分」

「うん」

 歩幅を合わせる。歩道は光るフィルムみたいに滑りやすく、電柱には雨がラインを描いて伝う。
 交差点で信号が赤に変わり、私たちは足を止めた。車が通り、水しぶきが跳ねる。裾に冷たい点々が広がる。

「真央」

 名前を呼ばれて、私は横を見た。桜庭の横顔は、雨で少し濃く見える。

「俺、さ——」

 言葉のすぐ後ろで、トラックが水たまりを踏んだ。盛大な音としぶきが、傘の縁を越えて肩を濡らす。私たちは思わず笑い、同時に一歩、互いの方へ寄った。傘の軸がわずかに傾く。
 桜庭が口を開き直した、その時。

 スマホが震えた。彼も私も、同時に。

 私の画面には、秘書室からの一行。

『ルートC、現在一部で足止め。コンビニ角を右に、それから裏通りを——』

 桜庭の画面には、総務の緊急チャット。

「ごめん、今、回線トラブル。俺、戻らないといけないかも」

「わかった。私はルートCで駅に向かう」

「途中まで送る」

「大丈夫」

 思わず出した四文字。桜庭は少し笑って、傘を私の手に押し付けた。

「じゃあ、傘だけ貸す。駅前の本屋で返して」

「桜庭は?」

「走る」

「濡れるよ」

「平気。俺、力持ちだから」

 いつかの冗談。私は傘を受け取り、彼の背に「ありがとう」を投げる。桜庭は親指を立てて振り返り、雨の中へ消えた。
 交差点の青が点滅する。私は一人で歩き出す。契約の線と、日常の線。二本の線の上を、慎重に進む。

 裏通りは、昼間より暗い。雨音が壁から返って、距離感を奪う。白茶の香りが、雨の匂いの奥でかすかに立った。
 仮初めの指輪を親指で触れる。金属は冷たくなく、ただの円の温度を保っている。

 角を曲がったとき、ふいに人影が動いた。拍子抜けするほど普通の傘。黒いレインコート。足音は速すぎもせず、遅すぎもしない。
 胸の奥でスイッチが入る。私はスピードを変えない。バッグを肩に寄せ、背筋を伸ばす。
 スマホが震えた。彼からだ。

『駅、混んでる。合流はしないけど、見える位置にいる。——許可を?』

 雨の音のなかで、口元が緩む。

『許可します。私は“見えない距離”にいます』

『了解』

 文字の温度だけで、呼吸が落ち着く。角のガラスにぼんやり映る背の高い影。一定の距離を保って動く。合流しない。干渉しない。
 けれど確かに“守る手”がある。私は足を止めず、駅までの残りを数えた。

 駅前の本屋に着くと、雨はさらに強くなった。軒先で傘をたたみ、桜庭にメッセージを送る。

『返却ここでOK?』

 すぐに「今向かってる」と返ってきた。三十秒ほどで、彼が小走りに現れる。髪も肩も濡れている。

「ごめん。ありがとう」

「間に合ってよかった」

 傘を渡すと、桜庭は取っ手を握り直し、少しだけ真面目な顔をした。

「さっきの続き、言っていい?」

 雨の音が軒先に集まって、透明なカーテンをつくっている。私は頷いた。
 桜庭は一度、息を整えた。

「——俺、たぶん、君に」

 その言葉の直前に、アナウンスが割り込んだ。構内放送が音量を上げ、遅延情報が響く。人が一斉に動く。
 桜庭の声は、雨と人波に溶けていった。彼は苦笑する。

「……ごめん。縁がないな、今日」

「……ううん」

「いつでも、とは言わないけど、また、どこかで」

 未遂。線の手前で止まった言葉が、雨に濡れて光る。
 私は小さくうなずいた。
 彼は「帰り、気をつけて」とだけ言って、改札とは逆方向へ走っていく。総務のトラブル対応。彼の“伴走”は、私だけのものではなく、仕事の中にもある。

 ホームに降りた瞬間、スマホが震えた。彼から。

『駅、見えた。——W.T.』

 笑ってしまう。私は短く返す。

『W.T. 雨音、強いです』

『強い雨は、すぐ弱まる』

『信じます』

 電車が滑り込み、ドアが開く。車内の蛍光灯の下、指輪が小さく光る。
 約束の線は、今日も見える。守られているのに、少しだけ、にじむ。

 帰宅。鍵を回したところで、スマホがもう一度震えた。表示は“父”。
 胸の奥が、予感で重くなる。

「もしもし」

『真央か。……すまん、今、病院だ。ちょっとした検査のつもりが、先生から今夜のうちに来てくれって』

「え?」

『大したことはないと思うが、説明がいるらしくてな。明日の朝でもいいと言われたが……』

 父の声は元気だ。でも、受話器の向こうの空気は、白い。
 私は靴を脱ぎながら、スケジュールの欄外に明日の予定をひとつ書き足した。

「明日、行く。朝いちで」

『助かる。場所、メッセージで送る』

「うん。……お父さん」

『ん?』

「雨、気をつけて」

 通話を終え、壁にもたれる。白茶のロールオンを手首に軽く滑らせる。
 ——第十章の扉の音が、雨に混じって遠くで鳴った気がした。

 ベッドに入る前、いつもの一行を送る。

『W.T. おやすみなさい』

 数秒後、返事。

『W.T. 雨音で眠れますように』

 画面を伏せる。雨はまだ降っている。
 告白は未遂のまま、夜は静かに深くなっていく。
 明日、病院の白い光の下で、私はどの名字で呼ばれるのだろう——そんなことを、少しだけ考えながら。
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