副社長と仮初めの指輪

第10章「家族の病室で名字を呼ぶ声」

 朝いちばんの雨は、夜の名残りを引きずって細く落ちていた。駅までの路地はまだぬかるみ、タイルの目地に水がたまっている。私は白茶のロールオンを手首に一滴、深呼吸してから会社に「午前、私用で外出します」とだけ申請を入れた。
 父からのメッセージには、病院名と病棟、部屋番号。絵文字は一つもないけれど、文末がやさしい。

 自動ドアが開くと、消毒液の匂いが胸の奥までまっすぐ入ってきた。受付で面会手続きをすませ、病棟エレベーターに乗る。鏡に映る自分の顔は、いつもより白い。左手の“W.T.”を親指でそっとなでて、階数表示を目で追う。

「——佐伯さま?」

 降りた先のナースステーションで、看護師が私の名字を呼んだ。
 はい、と返事をして顔を上げると、白いマスクの上の目尻がやわらいだ。

「お父さま、検査の結果、念のため一泊の観察入院です。ご本人は元気ですよ」

「ありがとうございます。手続きは私が」

「保証人の欄と、緊急連絡先をお願いできますか」

 緊急連絡先——ボールペンの先で、その四文字の横に小さく線を引く。いつもなら、父の携帯と私の番号で足りる。今日は、視線が一度だけ宙をさまよった。
 “干渉しない”の約束の内側で、私の生活に一番近いのは誰だろう。
 私は、ゆっくり書いた。父、私——そして空いた欄に、彼の名前。部署名は書かない。番号だけ。ペン先が紙から離れた瞬間、胸の奥で小さく音がした。

 病室は四人部屋の窓側だった。カーテンの向こうから父の低い声がして、私は「おはよう」と言いながら開いた。
 父は半身を起こして、いつもの作業着ではなく薄い病衣を着ていた。顔色は悪くない。私の顔を見て、眉の皺がほどける。

「来たか。雨で悪いな」

「大丈夫。……具合、どう?」

「どうもない。ちょっと脈が不揃いだってさ。機械につながれてる方が落ち着かん」

 父の言い方はいつもおおらかだ。私は笑って、手元の水差しに目をやる。
 ベッドサイドには身に覚えのあるものがいくつか。折りたたみの新聞、読みかけの小説、病院の売店の袋。父の生活が縮小して、この四角の内側に並んでいる。

「検査は追加?」

「今日の午後にもう一回だけ。帰りは明日だと」

「わかった。仕事、調整する」

 父は少し目を細めた。
「忙しいのに悪いな。……婚約ってやつも、仕事に影響ないのか」

 胸が一瞬きゅっとなる。私は頷いた。

「仕事は仕事。大丈夫」

「そっか。相手の人は、どんな人だ」

「……合理的で、優しい人」

 父が「へえ」と短く言う。
「機会があれば挨拶したいが、まあ、退院してからだな」

 言葉はあっさりしているのに、視線はまっすぐで、逃げ道がない。
 私は「うん」とだけ答えた。

 カーテンが少し開いて、看護師が顔を出す。

「失礼します。昼食のあと、採血がありますね。——それから、先ほどの書類、緊急連絡先に“氷川さま”のお名前がありましたが……」

 看護師の声は事務的で、やさしい。
 私は背筋を伸ばす。

「本件での連絡体制だけ、補助的にお願いしています。会社の方です」

「承知しました。ご家族の同意があれば大丈夫です」
 “ご家族”。その単語が空気の温度を少し変える。父は照れくさそうに頷き、看護師は軽く会釈して去っていった。

 父が私を見る。
「“氷川”って、あの会社の、か」

「うん」

「……おまえの選ぶ人なら、よし」

 それは祝福というより、信頼の短縮形だった。喉の奥が少しだけ熱くなる。
 私は話題を変えた。仕事のこと、近所の桜のつぼみのこと、母が好きだった店の閉店の噂。父は相槌を打ちながら、時々、無言で頷いた。

 昼を過ぎた頃、スマホが小さく震えた。表示は、彼。

『病院、到着。合流はしない。ナースステーションの前のベンチで“見えない距離”。——許可を?』

 返事の前に、一息笑いがこぼれた。
 私は短く打つ。

『許可します。採血の後で、廊下で一分、だけ』

『了解』

 “だけ”が、私の輪郭を内側から支える。
 採血を終えて、父が休んでいるあいだに、私は病室を抜けた。廊下は静かで、白い。
 ナースステーションの前の角に、彼がいた。スーツではなく、やわらかいグレーのセーター。病院の空気に合わせたのだろう。顔の影がいつもより薄い。

「来てくれて、ありがとうございます」

「無理はしていないか」

「大丈夫。……父、思ったより元気」

「よかった」

 短い言葉のあとに、彼が紙袋を差し出した。中には、病院の売店にはなさそうな、温かいスープのパックと、小さな保温ボトル。

「白湯。——それと、塩気がやわらかいスープ。医師の許可が出てからでいい」

「ありがとうございます」

「干渉しない約束は守る。でも、“家族の前で君の手がふるえる”なら、それは例外だ」

 看護師が通りかかり、私たちの前をやわらかく遮る。彼は半歩下がって、通路を空けた。
 病院は、距離の作法が行き交う場所だ。彼はそれを、よく知っている。

「——一分、終わりそうだ」

「はい」

 別れ際、彼は声を落とした。

「あとで、君の許可がもらえたら、父上に少しだけご挨拶を。十秒でいい」

「……聞いてみます」

 病室へ戻ると、父は目を閉じていた。ベッド脇の椅子に座ると、まつげが揺れて、父が目を開ける。

「顔が、明るいな」

「そう?」

「そうだ」

 私は迷いながらも、言った。

「さっき、彼が来てくれた。挨拶、少しだけでもいい?」

「もちろん。ここに、か」

「廊下で、一瞬だけ。疲れるといけないから」

「一瞬ならな」

 私はうなずき、メッセージを送る。
 すぐに「了解」の返信。
 ほどなくして、彼が病室の入り口で軽く会釈をした。私はカーテンを半分閉め、父の枕元に立つ。

「父です」

 彼はほんの少しだけ背をかがめ、はっきりした声で言った。

「氷川蓮と申します。——お嬢さんには、いつも助けられています」

 父の目が細く笑う。
「父の佐伯です。こちらこそ。娘を……大事に」

「はい。順序を同じにするつもりです」

 父は一瞬だけ首をかしげ、それから「よろしく」とだけ言った。
 彼は深くは頭を下げない。けれど、礼は十分だった。十秒の挨拶は、本当に十秒で終わる。

 廊下に出ると、看護師が私を呼び止めた。

「佐伯さま、主治医から説明があります。会議室で、よろしいですか」

「はい」

 医師はカルテを開き、淡々と話す。
 不整脈の傾向があり、念のため薬の調整と生活のリズムの見直し。重篤ではない。禁煙・減塩・適度な運動。
 私はメモを取りながら頷き、質問をいくつかする。
 医師は最後に「ご家族が支えることが重要です」と言い、書類を閉じた。

 会議室を出ると、彼が少し離れた壁にもたれていた。
 私は説明を要約して伝える。
 彼は黙って聞き、言葉をすくうように言った。

「君が一人で抱えないために、できることを分けてほしい。買い出し、送迎、手続き。——許可を?」

 ここは病院で、私は娘で、彼は婚約者で、契約は三か月。
 それでも、細かく折りたたまれた言い方は、私の“輪郭の内側”にそっと入ってくる。

「……買い出しのリスト、あとで送ります。今週の分だけ」

「了解」

 病室の前で別れる。彼は「お大事に」ともう一度言って、姿勢を正した。
 私は父の枕元に戻る。父は窓の外の薄い雨を見ていた。

「いい目をしてるな、あの人」

「目?」

「ああ。人を見る時の目だ。仕事の目じゃない方の」

 父の言葉はいつも少ないのに、肝心なところにだけ当たる。私は笑って、左手のリングを親指で触れた。

 夕方。病室のテレビから、無機質なバラエティの音。父が眠った隙に、売店で小さな買いものをした。白湯用の紙コップ、ゼリー、柔らかいタオル。
 戻ってくる途中、ナースコールが鳴り、看護師が小走りで通り過ぎる。病院の時間は波のようにゆっくりして、時々だけ速くなる。

 廊下のベンチに座って、スケジュールを見直す。合併の予定、社内の動線、匿名のログ。
 画面が震えた。七海からだ。

『病院、何か必要なら言って。プライバシー対応、病院側にも補足はできる』

『ありがとうございます。今のところ大丈夫。父は元気です』

『よかった。——“名字”、守れてる?』

 私は一瞬だけ、問いの重さを測る。
『はい。呼ばれ方は“佐伯”のまま。彼は、順序を同じにすると言いました』

『了解。いい言葉』

 七海の“了解”は、職務と個人の中間に落ちる安堵の音だ。
 私はスマホを伏せ、病室へ戻った。

 夜。父は眠り、フロアは昼より静かだ。
 窓の外に、雨がまだ細く降っている。
 帰る前に、もう一度だけ父の手元を整え、タオルを軽くたたむ。
 ナースステーションに一礼し、エレベーターを待つ。扉が開く直前に、背後から声がした。

「——氷川さまのご婚約者?」

 振り向くと、エレベーターホールの向こうに見覚えのない女性が立っていた。来客用のリボンをつけていない。肩のバッグにカメラのストラップ。
 心臓が一度、跳ねる。
 私は静かに首を横に振った。

「病院内は撮影禁止です。——広報に連絡しますね」

 女性は一瞬だけ顔をしかめ、それから何も言わずに踵を返した。
 エレベーターの扉が開く。私はボタンを押さず、数秒だけ立ち尽くす。
 白茶の香りを深く吸って、乗り込んだ。

 裏口から外に出ると、雨はほとんど上がっていた。夜風は冷たいけれど、鋭くはない。
 ホームまで歩く途中、画面が震える。彼だ。

『無事に出た?』

『出ました。今夜は私鉄で帰ります』

『了解。——緊急連絡先、ありがとう。重くなったら、すぐ半分持たせて』

『はい。買い出しのリスト、あとで送ります』

『待ってる。W.T.?』

 笑ってしまう。

『W.T. 病院の白い音で、眠れますように』

『W.T. 君の輪郭が、夜に滲まないように』

 電車が滑り込み、ドアが開く。車内の蛍光灯の下で、左手の“W.T.”が小さく光った。
 “名字”は、今日、何度か呼ばれた。受付で、ナースステーションで、父の枕元で。
 私は“佐伯”で、彼は“氷川”で、父は“父”だ。
 それでいい。順序は同じに、同時に。
 窓に映る自分の顔に、そっとうなずいた。

 家に着くと、玄関の灯りがいつもより穏やかに見えた。靴を脱いで、白茶のロールオンを手首に一滴。
 買い出しのリストを書き出す。減塩の調味料、やわらかめのパン、ゼリー、白湯用のボトルキャップ。
 送信を押す前に、スマホが先に震えた。七海から。

『病院の件、さっき不審者が一名。警備に引き渡し。院内は対処済み。——“守る手”は、現場にもある』

『ありがとうございます。助かりました』

 送信して、息を吐く。
 リストを彼に送る。「今週だけ」の注釈をつけた。
 数分ののちに「任せて」とだけ返ってくる。
 私はスマホを伏せ、指輪を外さず、灯りを落とした。

 ベッドの中で、父の寝息の記憶と、病院の白い音を思い出す。
 名字は、輪郭の外側に印字される。でも、呼ばれ方ひとつで、輪郭の内側まで音が届く。
 ——私の名字は、私のものだ。
 そう確かめてから、私は目を閉じた。
 雨上がりの夜は、思ったより静かだった。
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