副社長と仮初めの指輪

第11章「匿名メールの罠(真央に疑惑)」

 朝の空気は乾いて、病院の白い匂いだけがまだ指先に残っていた。父からのメッセージは短い。「薬、合った。明日退院」。それだけで、胸の奥のどこかが柔らかくほどける。白茶のロールオンを手首に一滴、私は深呼吸して会社のドアバッジをかざした。

 着席して五分、画面の隅が赤く点く。法務の全社チャネルではない。宛先は私個人、差出人は「コンプライアンス窓口」。件名は簡潔だった。

『ヒアリングのお願い(資料流出の疑い)』

 喉の奥が、空気をのみ込むのに失敗する。本文は丁寧で、事務的だ。昨夜、外部まとめサイトにアップされた「婚約“演出”マニュアル」と称するPDFについて、社内の一部文書からの引用が疑われ、作成者情報に「S.Mao」の文字が残っている——ので、確認したい、と。

 S.Mao。英語表記。私は二度瞬きし、白茶の香りを肺の奥へ押し込んだ。手が勝手にキーボードを叩く。

『承知しました。今から伺います』

 会議室F。ガラスの壁の向こうで、コンプライアンス担当の男女と、法務の姿が見える。ドアを開けると、七海がすでに座っていて、端末を閉じたところだった。視線が私をひと撫でし、席を勧める。

「佐伯さん。突然でごめん。確認だけ、淡々といこう」

「はい」

 卓上に印刷物が置かれる。グレーがかった薄紙。表紙には誰かが付けた大仰なタイトル『婚約“演出”マニュアル』。中身は、見覚えのある箇条書きだった。

 ——目線は二メートル先。
 ——距離は二歩。
 ——社内ラウンジでの滞在は五分以内。
 ——写真一枚ぶんの“描写”。

 社外の文脈では、“偽装の台本”に見えるだろう。けれど、これは私を守るための「動線メモ」だ。七海が淡々と補足する。

「元は広報で作った“動線の留意点”。流出したのは、そこに“総務向け備忘”の注釈が付いている版。——注釈の著者名が『S.Mao』になっている」

 コンプライアンス担当が私を見る。柔らかい声だが、目の芯は固い。

「まず確認です。佐伯さん、この版に見覚えは?」

「……注釈の中身には、覚えがあります。初回のレクチャで、自分用にメモしたものと同じです」

「作成日時は?」

「レクチャの翌日。私のPCでPDF化しました。広報共有フォルダにアップした覚えはありません」

 担当者が頷き、次の紙をめくる。アクセスログが表になっている。

「昨夜二十三時台、このPDFがスキャンサーバ経由で“外部アドレス”に送られています。差出人は汎用の『scanner@』で、社外宛先は匿名メアド。送信操作に必要なプリンタPINは、総務の島の四台すべてで共通ではない。——佐伯さんのPINで解錠されたログが残っている」

 息が詰まる音が、自分に聞こえた。PINは覚えている。書いて貼ったことはない。声が細くなる。

「昨夜は、病院に……父のところにいました。二十三時は家。会社にはいません」

 七海が端末を示す。すでに何かの画面が開いている。

「入退館ログ、VPNログ、メールログ、全部引いてる。——佐伯さんの“社内在席”は確認できない。“社外からの社内アクセス”もゼロ。つまり“誰かがPINを知って、スキャン→送信した”可能性が高い」

 法務が控えめに口を挟む。

「この場で犯人探しはしない。事実関係の整備だけ。ただ、当面、佐伯さんのPCとICカード、念のため預からせてください。業務は代替機で」

 私はうなずいた。左手の“W.T.”を親指でなぞって、輪郭をもう一度確かめる。七海が私の視線の落ちる場所を一瞬だけ追って、すぐ画面に戻した。

「検出されたPDFのプロパティには『S.Mao』の署名が残っている。——これは“罪”じゃない、“痕跡”。むしろ“いつ、どの端末でPDF化したか”を遡れる」

 コンプライアンスがうなずく。「その通り。だからこそ、今は落ち着いて」

 私は息を吐いた。落ち着く、という動詞の具体的なやり方が、少しだけ身体に戻ってくる。

「PINは変えます。島の四台も、サーバ側でリセットして」

「もうやってる」

 七海の返事は、早い。救われる速度だった。

 ヒアリングは三十分で終わった。退室するとすぐ、秘書室の河野から代替機が渡される。壁際でパスワードを設定していると、桜庭が少し離れた場所で立ち止まり、目だけで問いかけてきた。私は短く首を縦に振る。彼は小さく親指を上げ、無言で去った。

 席に戻ると同時に、画面の隅が弾けた。差出人不明。件名は空欄。本文は、一行だけ。

『白茶、よく似合う。見ているよ、S.』

 体温が一度、逆流する。親指が“削除”を押し、次に“転送”を押す。七海へ。件名に「匿名/白茶」とだけ書き添える。——白茶。W.T. を、社外は知らない。会社の中でも、ごく一部。背中の皮膚が細かく逆立つ。

 すぐ、七海から返信。

『受領。そこに“S.”が付くのは、彼らの“遊び”。社内の誰かか、まとめサイト常連の手口。——“無視&保全”続行。心拍だけ伝えて』

 私は左手のリングを親指で押さえ、心拍を確かめる。速い。けれど、壊れない。

 昼。社内カフェの水の味は、いつもより薄い。七海が遠くから二本指で合図を送る。——「立て」。私はうなずき、席を離れる。廊下の角で、声が追いかけてきた。

「真央」

 桜庭だった。手に紙袋。何かを渡すふりをして、視線を下げる。

「さっき、コピー機前。誰かがPIN入力してたの、見た気がする。昨日の夜九時過ぎ。俺、ケーブル取りに一瞬戻った時」

「顔は?」

「フードかぶってて、見えない。——ただ、入力の手つきが迷いなかった。番号、知ってる手」

 心臓の音がまた変わる。桜庭は紙袋を差し出した。中身は、目立たない色の栞。小さな付箋が添えられている。

『“つけっぱなし”の紙ルール——は、誰にでも起こる。PINは、目で覚える。手では書かない。』

 私は笑って、礼を言った。

「ありがとう」

「伴走だから」

 午後、代替機のキーボードはいつもと微妙に感触が違い、指がひっかかる。メールの着信のたびに心拍が跳ねるが、七海からのメッセージは必要最小限で、平たく正確だ。

『スキャンサーバのログ、解析中。送信先の匿名アドレスは“使い捨て”。追い切れない。でも、社内プリンタ側の監視カメラに“フード”が映ってる。——解像度、少し荒い』

 私は「了解」と打つ。数字の羅列が並ぶ画面を閉じ、白茶の香りをちいさく吸う。
 “私の生活”は、目の前の申請書と印鑑でできている。私は間違いなく総務で、紙の粉塵を掃き、段ボールのガムテープを切る。輪郭は、まだ私のものだ。

 定時が近づいた頃、会議室Cへ呼び出し。ドアを開けると、彼がいた。七海はいない。薄いグレーのシャツ、ネクタイなし。目の下にわずかな影。

「来てくれて、ありがとう」

「こちらこそ。——忙しいのに」

「君の件が、僕の仕事だ」

 それは、甘くはない言い方なのに、甘く響いた。私は首を振る。

「干渉しない約束、守られてます。だから、私から言います。……怖いです」

 彼の目が、少しだけ揺れた。すぐに静かに戻る。

「怖いと言ってくれて、ありがとう。——許可をもらって、CSIRT(情報セキュリティ)の優先度を上げた。夜間の警備も、総務フロアに一人増やす」

「許可します」

「それから」

 彼は紙袋を差し出した。中には、数字の配列が刷られた小さなカード。ランダムな配列。裏に小さく「目で覚える方法」の図。

「PINを“形”で覚えるツール。——今日、総務全員に配る。君だけの施策に見えないように」

 私は息を吸い、笑った。

「ありがとうございます」

「礼は君が言う必要はない。僕が言う。——守る」

 言葉は削ぎ落とされていて、それでも熱を持っていた。胸の内側で、何かが少し落ち着く。

「“延長”の資料、読んだ?」

「今日、まだ。……正直、今は、延長が“仕事の事情”に聞こえてしまう」

「そうだろう。だから、無理に話さない。延長は僕の都合であって、君の生活は、君のものだ」

 沈黙が、いい温度で落ちる。私は左手の“W.T.”を親指でなぞる。
 彼は視線をそれに触れさせ、ほんの少しだけ笑った。

「“白茶”、今日も効いてる?」

「はい。……匿名から“白茶、似合う、S.”とメールが来ました」

 彼の目が細くなる。静かな怒りの目になる。

「七海からも報告があった。——“遊び”の文字だ。君にだけ通じる単語を使うのは、“侵入”だ。許せない」

「無視&保全で進めます」

「うん。……夜の一行、今日も?」

「はい」

 会議室を出ると、廊下の角に七海がいた。端末を耳に当てていたが、通話を切り、こちらに近づく。

「スキャンカメラの映像、解析が進んだ。フード、マスク、帽子。正面は撮れてない。でも、指の動きが癖で——親指だけ立てるタイピング。特定できるかは五分五分」

 桜庭がふと頭をよぎり、すぐに否定する。彼の指は、あんな癖はない。
 七海が私の表情の影を拾い、短く首を横に振る。

「“疑う”は私たちがやる。君は立つだけ」

「はい」

「それから、もう一つ。“まとめサイト”発の記事を今夜中に“誤報誘導”で押し下げる。『台本』という言葉への反論はしない。‘動線の安全配慮’の解説記事を“第三者”に書かせる。——これも、守り」

 七海は軽く息を吐き、私の左手に視線を落とす。

「“痛い時は外す”——ルール、覚えてて」

「はい。今日は痛くないです」

「よかった」

 夜。帰り支度を整え、裏ゲートへ向かう途中、総務の島の照明が一瞬落ちて、すぐ戻った。蛍光灯の白がわずかに脈打つ。その一拍の闇の中、プリンタの前に薄い影がよぎった気がした。足が止まり、視線を凝らす。誰もいない。——気のせい、ではない気がする。

 秘書室からのルートをなぞって外へ出る。夜気は冷たく、白茶の香りを薄く拡散させた。駅までの道で、スマホが震える。差出人不明。

『今日の“台本”、助かったよ』

 削除。転送。息を整える。
 すぐに、彼からの一行が届く。

『W.T. 怖い、と言えた?』

『W.T. 言えました。立ってます』

『Good. “立つ”と“縮こまる”は、外から見ると同じ姿勢に見える。でも、君のは前者だ』

 笑ってしまう。私は短く返す。

『覚えておきます』

 ホームで電車を待つ間、父からのメッセージが届いた。「明日、退院でOK。朝、迎えがいるなら助かる」。私は「行く」と返す。「彼が白湯とスープを持ってきてくれた」ことは、書かなかった。まだ、ここには置かない。

 帰宅して灯りを点ける。玄関の足元に、薄い封筒が差し込まれていた。心臓が硬くなる。拾い上げると、中にはコピーが一枚。あの“動線メモ”の一ページ。赤いボールペンで、ぐるりと丸が付いている——『目線は二メートル先』の行。端に、丸文字で“ちゃんと演技してね♡”。

 手が冷え、すぐに温かくなった。私は封筒ごと写真に撮り、七海へ送る。返信は一分かからない。

『受領。警備経由で回収にいく。——それは“罠”というより“挑発”。演技の単語を君へ投げつけることで、内側から崩そうとするやり口』

『崩れません』

『知ってる』

 私は封筒を玄関の棚に置き、白茶のロールオンを脈にひと滑りさせる。
 指輪は外さない。今日は、眠るまで、輪郭の側にいてほしい。

 ベッドに入る前、もう一度だけ画面が震えた。七海だ。

『明朝、病院へは私から病棟へ連絡を入れておく。来客の身元、厳密に。——“守る手”は、現場にもいる』

『ありがとうございます』

 送信を押す。
 静かな部屋で、心拍の音が少しずつ小さくなる。
 私は目を閉じて、内側で言う。

 ——演技、じゃない。
 これは私の生活で、私の輪郭で、私の呼吸だ。

 白茶の香りが、ゆっくり夜に溶けていった。
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