副社長と仮初めの指輪
第12章「取締役会の夜(選ぶのは誰の未来)」
朝、病院の自動ドアをくぐると、消毒液の匂いがまだ淡く残っていた。父は予定通り退院で、書類にいくつかサインをする。看護師が「ご家族さま」と呼ぶたび、胸の奥のどこかが静かに灯る。
「薬、忘れるなよ。あと、塩は控えめにってさ」
「わかった。通院の付き添い、来週は私が行くね」
「忙しいのに悪いな。……仕事は、ちゃんとおまえの名前で続けろ」
“名字”の話をしなくても、父は同じことを言う。私は白茶のロールオンを手首にひとすべりさせ、病院を出た。空はすっかり乾いて、風だけが昨夜の雨の名残りを運んでいた。
会社に戻ると、秘書室から一枚の招集が来ていた。件名は簡潔だ。「本日十九時、取締役会。議題:合併クロージング進行/広報運用/契約婚約運用の見直し」。下段に小さく、黒い文字がある。
『関係者として佐伯真央さんの意見聴取(オブザーバー、五分)』
喉の奥がひとつ跳ねて、すぐ落ち着く。——選ぶ番が来た。私はメモ帳を開き、条件を四つ書いた。
一、延長は最長一か月。
二、生活優先(父の通院・総務の業務)。
三、“干渉しない”条項の拡張(夜の一行/緊急時の許可/「痛い時は外す」)。
四、匿名対応は会社一元化、本人は直接応答しない。写真の運用は「週一枚」を上限。
箇条書きの隣に、小さく“輪郭は私のもの”と書き添える。書いたのは私だけれど、言葉の半分には、彼と七海が宿っている。
十六時、会議室Dで七海が待っていた。タブレットの画面には「取締役会・想定問答」が整然と並ぶ。
「五分ね。言いたいことを二分に圧縮して、残り三分は問答に」
「わかりました」
「声は半音低め、語尾は伸ばさない。——今日、私はネクタイを直さない」
「……ありがとうございます」
七海の口元が、わずかに笑う。「今夜は“線”が大事だから」
十九時前。役員フロアは空調の音まで整って、カーペットが音を吸い込む。私は前室の椅子に座り、メモを指先でなぞった。扉の向こうから、人の声が層になって流れてくる。
チャットが震える。桜庭からだ。
『フロア下のソファにいる。伴走のイメージで、心の中だけ隣歩く』
笑いそうになって、やめる。指で「ありがとう」と打った。指輪の内側の“W.T.”が、蛍光灯の白を小さく返す。
河野が静かに扉を開けた。「準備、いいですか」
「はい」
部屋に入ると、椅子の配置で空気の流れが見えた。長机の向こうに取締役たち。七海は端、彼は正面のわずか左。視線が一瞬だけ触れて、離れる。
「総務部・佐伯真央さん。——短く意見を」
議長の声に、私は立った。体の真ん中に息を落とし、言葉の芯だけを出す。
「佐伯です。延長について、私の意思は“最長一か月・明文化”です。私は総務としての仕事と、家族の生活を守ります。そのうえで、会社の広報運用に協力します。ただし——」
私の声が、思ったよりまっすぐだった。
「“干渉しない”を拡張して明記してください。夜の安全確認の一行、緊急時の合流、そして、“痛い時は外す”。匿名対応は会社が一元化、私個人は応じません。写真は週一枚まで。以上が、私の輪郭の条件です」
沈黙。視線の温度がいくつか、順に私をなぞる。
一人の役員が、慎重に言葉を置いた。「会社の都合では足りない、と」
「はい。会社の未来に協力したいです。だからこそ、私の未来も、私が決めます」
七海が、端で小さく頷いた気配がした。別の役員が言う。「“週一枚”とは?」
「“描写”のための写真です。生活のための写真は、ゼロ枚です」
誰かの息が変わる。彼が、ゆっくり口を開いた。
「会社を守ることと、人を守ることは、順序ではなく同時だ。——本人の条件を、僕は支持する」
議長が「意見、了」と短く告げる。私は会釈して下がり、前室に戻った。扉が閉じる音が背中で丸くなる。手首の白茶を吸い、椅子に座る。しばらくして、スマホが震えた。差出人不明。
『選ぶのは“君の未来”じゃなくて、“彼の仕事”だよ』
削除。転送。心拍は速いが、崩れない。私の靴の裏は、まだ床を掴んでいる。
十五分後、扉が開いた。先に七海が出てきて、親指を立てず、口だけで「OK」と言う。その形が、やけに可笑しい。続いて彼が現れる。前室の距離の中で、彼は必要最低限の言葉を選んだ。
「——延長、一か月。条件は全文そのまま明文化。本人同意で発効。社内規程に“動線の安全配慮”として追記。匿名対応は広報一本化。写真は週一枚まで」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、僕の方だ。選んでくれて、ありがとう」
胸の奥で、固いものがやわらかくほどける音がした。七海が横から短く補う。
「明文化は今夜中に起案。法務回して、明朝には内部掲示。——“痛い時は外す”は、附則に入れる」
「附則」
「大事よ。“生活のほうが強い”ってことを、紙に刻むの」
私は笑ってしまう。「紙に刻む」。刻印の二文字が、指の内側で小さく鳴った。
「帰りの導線は今日も裏ゲート。河野が付きます」
「ありがとうございます」
エレベーター前まで見送られて、私は一礼だけして離れた。廊下の端に、夜景が薄く光る。カーペットの上を歩きながら、さっきの部屋の空気を反芻する。誰かの“ため息”も、誰かの“咳払い”も、今夜は私を傷つけない。
フロアを降りると、桜庭が本当にソファにいた。紙コップの水を持って、姿勢よく座っている。目が合うと、立ち上がって小さく言った。
「選べた?」
「うん。——一か月」
「よかった」
それしか言わないのが、桜庭だ。伴走の足音は、いつも必要最低限で、必要十分だ。
裏ゲートまでの廊下は静かだった。河野が少し前を歩く。角で警備とすれ違い、軽くうなずき合う。夜気が流れ込むドアの前で、スマホが震えた。七海から。
『“週一枚”の運用、私が担保する。——お疲れさま。いい声だった』
『ありがとうございます』
外へ出る。夜風が、白茶の香りを薄く運ぶ。駅までの道で、またスマホが震える。彼だ。
『W.T. “選ぶ”はできた?』
『W.T. できました。——条件、紙に刻むことも』
『Good. その紙は、僕たちの“輪郭の合意書”でもある』
私は笑って、短く「了解」と返す。電車が滑り込み、ドアが開く。蛍光灯に、指輪が小さく光った。
家に着くと、玄関の灯りが穏やかだ。冷蔵庫を開けると、夕方に届いていた食材の箱に、見慣れないボトルが一本入っていた。ラベルは白、文字は小さく“for W.T.”。白湯用の保温ボトルだ。小さな付箋に、丸い字で「温度はあなたの好きに」とだけある。差出人は書かれていない。けれど、誰の手だか、もうわかる。
スケジュール帳の端に小さく書き足す。
“延長 +1ヶ月(私が選んだ)。週一枚。痛い時は外す。”
文字は薄いのに、今夜のどれより濃く見えた。白茶を脈にひとしずく重ね、灯りを落とす。ベッドに入る前、いつもの一行。
『W.T. おやすみなさい』
数秒で返る。
『W.T. 君の“輪郭の紙”に、夜が破線で寄り添いますように』
画面の光が消える。暗がりで、指輪の内側の二文字が、ほんの気のせいみたいに温かい。
——選ぶのは誰の未来か。
今夜、少なくとも一行ぶんだけは、私が選んだ。
「薬、忘れるなよ。あと、塩は控えめにってさ」
「わかった。通院の付き添い、来週は私が行くね」
「忙しいのに悪いな。……仕事は、ちゃんとおまえの名前で続けろ」
“名字”の話をしなくても、父は同じことを言う。私は白茶のロールオンを手首にひとすべりさせ、病院を出た。空はすっかり乾いて、風だけが昨夜の雨の名残りを運んでいた。
会社に戻ると、秘書室から一枚の招集が来ていた。件名は簡潔だ。「本日十九時、取締役会。議題:合併クロージング進行/広報運用/契約婚約運用の見直し」。下段に小さく、黒い文字がある。
『関係者として佐伯真央さんの意見聴取(オブザーバー、五分)』
喉の奥がひとつ跳ねて、すぐ落ち着く。——選ぶ番が来た。私はメモ帳を開き、条件を四つ書いた。
一、延長は最長一か月。
二、生活優先(父の通院・総務の業務)。
三、“干渉しない”条項の拡張(夜の一行/緊急時の許可/「痛い時は外す」)。
四、匿名対応は会社一元化、本人は直接応答しない。写真の運用は「週一枚」を上限。
箇条書きの隣に、小さく“輪郭は私のもの”と書き添える。書いたのは私だけれど、言葉の半分には、彼と七海が宿っている。
十六時、会議室Dで七海が待っていた。タブレットの画面には「取締役会・想定問答」が整然と並ぶ。
「五分ね。言いたいことを二分に圧縮して、残り三分は問答に」
「わかりました」
「声は半音低め、語尾は伸ばさない。——今日、私はネクタイを直さない」
「……ありがとうございます」
七海の口元が、わずかに笑う。「今夜は“線”が大事だから」
十九時前。役員フロアは空調の音まで整って、カーペットが音を吸い込む。私は前室の椅子に座り、メモを指先でなぞった。扉の向こうから、人の声が層になって流れてくる。
チャットが震える。桜庭からだ。
『フロア下のソファにいる。伴走のイメージで、心の中だけ隣歩く』
笑いそうになって、やめる。指で「ありがとう」と打った。指輪の内側の“W.T.”が、蛍光灯の白を小さく返す。
河野が静かに扉を開けた。「準備、いいですか」
「はい」
部屋に入ると、椅子の配置で空気の流れが見えた。長机の向こうに取締役たち。七海は端、彼は正面のわずか左。視線が一瞬だけ触れて、離れる。
「総務部・佐伯真央さん。——短く意見を」
議長の声に、私は立った。体の真ん中に息を落とし、言葉の芯だけを出す。
「佐伯です。延長について、私の意思は“最長一か月・明文化”です。私は総務としての仕事と、家族の生活を守ります。そのうえで、会社の広報運用に協力します。ただし——」
私の声が、思ったよりまっすぐだった。
「“干渉しない”を拡張して明記してください。夜の安全確認の一行、緊急時の合流、そして、“痛い時は外す”。匿名対応は会社が一元化、私個人は応じません。写真は週一枚まで。以上が、私の輪郭の条件です」
沈黙。視線の温度がいくつか、順に私をなぞる。
一人の役員が、慎重に言葉を置いた。「会社の都合では足りない、と」
「はい。会社の未来に協力したいです。だからこそ、私の未来も、私が決めます」
七海が、端で小さく頷いた気配がした。別の役員が言う。「“週一枚”とは?」
「“描写”のための写真です。生活のための写真は、ゼロ枚です」
誰かの息が変わる。彼が、ゆっくり口を開いた。
「会社を守ることと、人を守ることは、順序ではなく同時だ。——本人の条件を、僕は支持する」
議長が「意見、了」と短く告げる。私は会釈して下がり、前室に戻った。扉が閉じる音が背中で丸くなる。手首の白茶を吸い、椅子に座る。しばらくして、スマホが震えた。差出人不明。
『選ぶのは“君の未来”じゃなくて、“彼の仕事”だよ』
削除。転送。心拍は速いが、崩れない。私の靴の裏は、まだ床を掴んでいる。
十五分後、扉が開いた。先に七海が出てきて、親指を立てず、口だけで「OK」と言う。その形が、やけに可笑しい。続いて彼が現れる。前室の距離の中で、彼は必要最低限の言葉を選んだ。
「——延長、一か月。条件は全文そのまま明文化。本人同意で発効。社内規程に“動線の安全配慮”として追記。匿名対応は広報一本化。写真は週一枚まで」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、僕の方だ。選んでくれて、ありがとう」
胸の奥で、固いものがやわらかくほどける音がした。七海が横から短く補う。
「明文化は今夜中に起案。法務回して、明朝には内部掲示。——“痛い時は外す”は、附則に入れる」
「附則」
「大事よ。“生活のほうが強い”ってことを、紙に刻むの」
私は笑ってしまう。「紙に刻む」。刻印の二文字が、指の内側で小さく鳴った。
「帰りの導線は今日も裏ゲート。河野が付きます」
「ありがとうございます」
エレベーター前まで見送られて、私は一礼だけして離れた。廊下の端に、夜景が薄く光る。カーペットの上を歩きながら、さっきの部屋の空気を反芻する。誰かの“ため息”も、誰かの“咳払い”も、今夜は私を傷つけない。
フロアを降りると、桜庭が本当にソファにいた。紙コップの水を持って、姿勢よく座っている。目が合うと、立ち上がって小さく言った。
「選べた?」
「うん。——一か月」
「よかった」
それしか言わないのが、桜庭だ。伴走の足音は、いつも必要最低限で、必要十分だ。
裏ゲートまでの廊下は静かだった。河野が少し前を歩く。角で警備とすれ違い、軽くうなずき合う。夜気が流れ込むドアの前で、スマホが震えた。七海から。
『“週一枚”の運用、私が担保する。——お疲れさま。いい声だった』
『ありがとうございます』
外へ出る。夜風が、白茶の香りを薄く運ぶ。駅までの道で、またスマホが震える。彼だ。
『W.T. “選ぶ”はできた?』
『W.T. できました。——条件、紙に刻むことも』
『Good. その紙は、僕たちの“輪郭の合意書”でもある』
私は笑って、短く「了解」と返す。電車が滑り込み、ドアが開く。蛍光灯に、指輪が小さく光った。
家に着くと、玄関の灯りが穏やかだ。冷蔵庫を開けると、夕方に届いていた食材の箱に、見慣れないボトルが一本入っていた。ラベルは白、文字は小さく“for W.T.”。白湯用の保温ボトルだ。小さな付箋に、丸い字で「温度はあなたの好きに」とだけある。差出人は書かれていない。けれど、誰の手だか、もうわかる。
スケジュール帳の端に小さく書き足す。
“延長 +1ヶ月(私が選んだ)。週一枚。痛い時は外す。”
文字は薄いのに、今夜のどれより濃く見えた。白茶を脈にひとしずく重ね、灯りを落とす。ベッドに入る前、いつもの一行。
『W.T. おやすみなさい』
数秒で返る。
『W.T. 君の“輪郭の紙”に、夜が破線で寄り添いますように』
画面の光が消える。暗がりで、指輪の内側の二文字が、ほんの気のせいみたいに温かい。
——選ぶのは誰の未来か。
今夜、少なくとも一行ぶんだけは、私が選んだ。