副社長と仮初めの指輪
第13章「過去の傷の告白(触れられない理由)」
翌朝の社内掲示板に、昨夜の決定が短く載った。
——契約婚約の運用は一か月延長。本人の同意に基づく。
——“干渉しない”条項の拡張(夜の一行/緊急時の合流/「痛い時は外す」)。
——匿名対応は広報一元化、写真は週一枚上限。
文字は事務的なのに、紙の向こう側は静かに温かい。私は白茶のロールオンを手首にすべらせ、左手の“W.T.”を親指でなぞった。輪郭は、今日も私のものだ。
午前、庶務の細々した依頼が途切れなく続く。来客用の湯呑みの補充、消耗品の在庫確認、会議室の椅子のガタつき。単純な仕事が、心拍を地面につなぎ直してくれる。
昼前、七海から一行。
『午後の“描写”はナシ。今日は“生活”だけで』
『了解しました』
十三時すぎ、エレベーターが混んでいた。私は一本見送り、次の箱に乗る。ドアが閉まりかけた瞬間、誰かの腕が差し込まれ、センサーが反応してひらいた。ぐっと肩が押され、右手首をつまむような感触が、ほんの一瞬、皮膚の上に残る。
世界が薄くなる。
呼吸の出口がわからなくなる。
私は反射で後ろへ下がり、誰のものとも知れない「すみません」を聞いた。誰も悪くない。事故みたいな触れ方。それでも、右の皮膚は過去の場所に飛んでいく。
踵を返し、非常階段の踊り場へ逃げる。壁に背中をつけ、膝を軽く曲げる。白茶の香りを深く吸う。四数えて吸って、七止めて、八で吐く——と、以前七海に教わったやり方を思い出す。指先が小さく震える。
スマホが震えた。彼からだ。
『大丈夫? 今、階段のカメラに君が写った』
私は正直に打った。
『だいじょうぶじゃない、ので、だいじょうぶにしている最中です。——“見えない距離”にいてもらえますか』
『許可を?』
『許可します。会議室Eの前まで来て、ドアの外にいてください。触らないで、声だけで』
『了解』
踊り場の冷たい手すりを背中に押し当て、息を数える。階段の金属のにおいと、白茶の香りが混ざって、やっと輪郭が戻ってくる。
十分後、会議室Eの前。ドアは半分だけ開け、私は室内に立つ。廊下には彼の影。視線は合わない距離。彼が、ゆっくり声を落とした。
「僕にできることを、言って」
「……ここに、いてください。私のほうから、話します」
「聞く」
言葉はそこで止まり、余白ができる。私は右の手首を左手で包み、ゆっくり口を開いた。
「右手、なんです。——昔、階段で。すこし、強く掴まれて。『待って』って言ったのに、待ってもらえなくて。手首の骨が鳴る音がして、匂いが鉄と香水で混ざって、息の出口が、わからなくなった」
部屋の空気が私の言葉に合わせて動く。彼は遮らない。
私は続けた。
「大学のときの、短期のバイト先でした。上の人で、告げる先も、守り方も知らなかった。——言わなかったのは、私です。『怖い』が、当時は悪口みたいに思えたから。右手は、それ以来エレベーターの縁に近づけない。掴まれる形に、脳が先に反応する。だから、指輪は左に。白茶は、境界線です。自分の輪郭を、香りで引き直す線」
手首が少し熱くなり、同時に冷える。私は息を数えた。
扉の向こうから、ゆっくりした声が落ちる。
「ありがとう。——話してくれて」
たったそれだけなのに、体の芯が少し戻る。彼は短い間を置き、慎重に続けた。
「僕の“昔”も、君に話していい?」
「……聞かせてください」
「高校のとき、父の会社の不祥事で、家族ごと火に巻かれた。母は、写真の中で叫ぶ“声”のない人になった。本人は何も語らなかったのに、“語ったこと”にされて、毎日、玄関に紙が届いて、知らない誰かの正義の言葉が、生活を汚した」
ドアの外、呼吸が一度だけふかくなる。
「我慢は正義じゃない。でも、怒り方を知らなかった。『家を守れ』と言われ、『会社を守れ』と言われ、どちらも守れなかった。——だから、僕は誓った。順序は同じだ、と。会社を、人を、同時に守る、と。演出の外に人がいることを、絶対に忘れない、と」
右の手首の鼓動が、静かに落ち着いていく。私は少し笑った。
「“順序は同じ”。やっと、あなたの言葉の“重さ”が、私の中に同じ重さで乗りました」
「よかった」
彼はそこで言葉を切り、少しだけ冗談の温度を戻した。
「怒る練習、今日、僕も合流していい?」
「どういう練習ですか」
「君の“怖い”を、“怖い”のまま置く練習。『大したことない』で上書きしない。——許可を?」
「許可します」
「じゃあ今は、『怖かったね』だけ言う。……怖かったね、真央」
名前を呼ばれる音に、心臓が小さくうなずいた。私は吸って、吐く。
「怖かったです。今は、平気です」
「よし」
ドアの隙間に、彼の手の影が静かに近づき、止まった。触れないぎりぎりの距離。
「この距離でいい?」
「はい。——その距離だと、私の輪郭は私のままです」
「了解」
それで十分だった。
数分後、私は会議室を完全に閉め、隣の洗面所で冷たい水に右手首だけを沈めた。鏡の中の自分は、ほんの少し色が戻っている。白茶をもう一滴。脈は落ち着いている。
島に戻ると、桜庭がコピー用紙の束を抱えて立っていた。私の顔を見て、一瞬だけ眉を寄せ、それから、いつもの調子で言う。
「お菓子配るけど、いる?」
「いる。甘いの、ください」
「はい、出ました“甘いの”」
紙箱の中から、しっとりしたケーキが出てくる。私は笑って受け取り、右手首を無意識に左で覆った。桜庭の視線がそこに落ち、すぐ離れる。
「……無理は、するな」
「うん。してない」
「よし」
午後の作業は、速度を落として進めた。誰かの足音が近づくたび、右側の空白が少し騒ぐ。でも、崩れない。
夕方、七海からチャット。
『階段の件、監視に“押し戻しの接触”が映った。事故レベル。——ただ、今日から“右側に立たない動線”に緩く切り替える。君の許可の範囲で』
『ありがとうございます。許可します。右に空間があると落ち着きます』
『了解。——“怒る練習”、できた?』
『はい。彼と一緒に、“怖かったね”の言葉を置きました』
『いい練習』
定時すこし前、秘書室の河野が新しい社内ルールカードを配って回った。“動線の安全配慮”の追記版だ。最後に小さく、附則。
——痛い時は外す。
印字されたその行を指でなぞる。紙のざらりとした手触りが、内側のどこかを確かに支える。
帰りの裏ゲート。空は薄く晴れていて、風はやわらかい。角を曲がると、彼がいた。距離は、昼と同じ。
私は先に言った。
「今日は、右に私。左にあなた」
「了解。……右は空ける」
二人で歩く。触れない。距離は“息が混ざらない”くらい。
駅の手前で足を止めた。合流はしない約束。私は首だけで小さく礼をし、別方向に向き直る。
その瞬間、彼が少しだけ声を落とした。
「——いつか、触れていいときが来たら、右じゃなくて、左からにする」
胸のどこかが、ゆっくり明るくなる。私は笑って、短く頷いた。
「覚えておきます」
家に帰ると、玄関の灯りがやわらかい。靴を脱ぎ、白茶のロールオンを脈に一滴。
キッチンで白湯を沸かし、ボトルに注ぐ。湯気の白が、天井で小さくほどける。
そのとき、ポストがかすかに鳴いた。覗き穴から見ると、廊下には誰もいない。足元に薄い封筒。拾い上げて中をあけると、コピーが一枚。
——昨日の“誤報誘導”記事のプリントアウト。赤いペンで、“演技じゃないの?”の文字。
私は深呼吸して、写真を撮り、七海へ送る。短い返事。
『受領。予定通り、警備・法務で処理。——“挑発への不在”は、最高の返答』
『了解。今日は、話ができました』
『それが一番』
夜。ベッドサイドに腰を下ろし、指輪を外さずに灯りを落とす。暗がりで、左の“W.T.”がかすかに明るい。
スマホが一度だけ震えた。彼から。
『W.T. “怖かったね”を置けた?』
『W.T. 置けました。“右に空間”のルール、明日も続けます』
『了解。——右が空いてるぶん、左をあたためる』
『わかります』
送信して、目を閉じる。
——触れられない理由は、言葉の外に置いておくと、いつまでも形を変えて迫ってくる。
でも今夜は、名前を与えた。私の過去の傷に。
“怖かった”。
それは弱さじゃなくて、輪郭の一部だ。
白茶の香りが、静かに夜へ溶けていった。