副社長と仮初めの指輪

第14章「契約延長の提案(条項か本音か)」


 翌朝、右側に空間を確保する新しい動線に体を馴染ませながら、私はいつもどおり総務の島に座った。印鑑の朱肉、在庫シート、来客用の湯呑み。紙が手の中でいつもの音を立てる。
 社内掲示板の端には、昨夜の決定が粛々と並んだままだ。「延長+一か月」「干渉しない拡張」「週一枚」。文字は冷たいのに、触れ心地は不思議にやわらかい。

 十時、七海から一行。

『本日“描写”ナシ。——動線だけ守って“生活”して』

『了解しました』

 昼前、備品庫で段ボールのガムテープを切っていると、スマホが小さく震えた。彼から。

『今夜、三十分、時間を。——“条項”の相談。場所は屋上ラウンジ。風が弱い日だ』

 条項。胸のどこかが、緊張と期待のちょうど中間で小さく鳴る。

『了解。右に空間、のルールで』

『遵守』

 コンビニで買ったおにぎりをデスクでかじり、午後は来客受付と申請書のチェックをまとめて終わらせる。匿名の受信はゼロではないが、広報のフィルターが効き、表面の水はもう跳ねない。
 定時すこし前、七海からまた一行。

『屋上、二十時前後は人が少ない。——“線”気をつけて』

『了解しました』

 夜。屋上ラウンジは、予告どおり風が弱かった。低い手すりの向こう、街の灯りが遠くで揺れている。
 彼は先に来ていて、私を見るとわずかに会釈した。距離は“息が混ざらない”くらい。右は空、左に彼。

「寒くない?」

「大丈夫です」

 彼はポケットから薄い封筒を出した。表に手書きで「条項案」とある。思わず笑ってしまい、私が視線だけで謝ると、彼も少し笑った。

「冗談じゃない。真面目に“条項”として用意した」

「拝見します」

 封筒から出てきたのは、A5の紙一枚。箇条書きが三つ。

 一、休日に限り、二時間の“相互干渉”を許容(場所は屋外、左側に立つこと)。
 二、“夜の一行”に加え、当日朝の“予定の一行”を任意で送信可。
 三、匿名の挑発に揺れた際、どちらか一方が“会話の許可”を申請できる(合流ではなく声だけ)。

 私は読みながら、胸の奥のどこかが、ゆっくりあたたまっていくのを感じた。
 彼は私の表情を追わず、街の灯りの方を見ている。

「条項に見せかけた“提案”だ。合併の終盤は、週末まで緊張が伸びる。……だから、“生活のほうを強くする時間”を、決めて取りたい」

「“相互干渉”」

「そう書くと、少し笑えるだろう?」

「はい。——でも、好きです。言い方も、意図も」

 言葉がするっと出た自分に少し驚く。右に空間。左に彼。私は紙の余白に小さくペンを走らせた。

「付け足しても、いいですか」

「もちろん」

 私は二行、書いた。

 四、“甘いもの、今度”の実施に関する合意(未定→実施)。
 五、雨の日は歩幅を縮め、傘の中心を“私寄り”に。

 彼が覗き込み、静かに笑う。

「合意」

「ありがとうございます」

「もう一つ。——条項に書けないことも、言ってみていい?」

「はい」

 彼は少しだけ息を置いた。視線はまだ風景に向いたまま。

「延長が必要なら、さらに一か月、という選択肢がある。会社のためじゃない。“君が”息の仕方を見つける過程に、同伴するために」

 胸の奥で音が変わる。私は封筒の紙の端を指で折り目にしながら、言葉を探した。

「——それは“条項”ですか。“本音”ですか」

「本音だ。条項の衣を着せた」

 夜気が薄く揺れる。遠くの道路で、遅い車が一台、信号を抜ける音がした。
 私は白茶をひとすべり手首になじませ、ゆっくり頷いた。

「“今、すぐ”の延長には、まだ返事ができません。でも、“選択肢がある”ことは、救いです。……私からも、条項には書けないことを言っていいですか」

「聞く」

「“会いたい”を言う練習を、はじめたい。——“怖い”の練習は、できるようになったから」

 彼の横顔が、街の明かりでほんの少し明るくなる。

「いい練習だ。許可する、じゃなくて、合意したい」

「合意」

 ふたりで小さく笑った。
 彼が封筒からもう一枚、小さなメモを取り出す。レシートの裏。丸い字。

「これは七海の“附則”。さっき、送られてきた」

 私は受け取って読む。

 ——“演出の外で泣かない”は、泣きたい日に限り、解除可。
 ——“ネクタイを直さない”は、当人の意思が固まるまで継続。
 ——“週一枚”の写真は、甘いもの実施日を優先。

 思わず吹き出しそうになり、手で口元を押さえた。七海の冗談は、いつも業務の顔をして現れる。

「いい附則ですね」

「彼女は、僕らより正確に“温度”を測る」

「はい」

 沈黙が落ちる。風は弱く、夜はやわらかい。
 私は紙を封筒に戻し、胸ポケットに仕舞った。指輪の内側の“W.T.”が、布越しに小さく触れる。

「——条項の相談、という名の、告白でしたね」

「否定しない」

「私からも、条項の衣を着せて、言います」

 彼が視線をこちらに戻す。
 私は、息の落ち着いた声で言った。

「“左から、近づいてほしい”」

 彼は短く瞬き、ゆっくり頷いた。

「合意」

 それで十分だった。
 屋上から降りるエレベーターの前で、彼は半歩だけ下がり、通路を空ける。私は会釈し、別方向の廊下へ歩き出す。
 角を曲がる直前、彼の声が届いた。

「——“甘いもの、今度”。土曜の午後、二時。社屋の外、ひと駅先の小さな店。白いタルトが有名だ」

「予定の一行、に入れておきます」

「待ってる」

 部屋に戻ると、画面の隅が跳ねた。差出人不明。本文は一行。

『延長の話、もう出た? “役に立つ婚約者”でいられるといいね』

 削除。転送。呼吸は乱れない。
 すぐ、七海から返事。

『受領。“誤報誘導”二弾を明朝に出す。社内は静かに。——土曜の“甘いもの”、予約入れといた』

『ありがとうございます。七海さん、ネクタイは?』

『直さない。今夜は“温度がいい”』

 笑って、端末を伏せた。
 帰りの裏ゲート。夜気はさらにやわらぎ、白茶の香りが薄く伸びていく。駅までの道で、彼から一行。

『W.T. 条項、合意?』

『W.T. 合意。——条項じゃない方も』

『Good. “会いたい”の練習、僕からも始める』

『了解』

 電車が滑り込む。蛍光灯の下で、指輪が小さく光る。
 家に着いて灯りを落とすと、静けさが部屋の輪郭をはっきりさせた。ベッドサイドに封筒を置き、私は指輪を外さないまま目を閉じる。

 ——条項は、私たちのための線引きで、同時に、私たちの“通路”でもある。
 線のこちら側で「会いたい」と言う練習を、今夜から始めよう。

 スマホが小さく震えた。

『W.T. おやすみ』

『W.T. “甘いもの、今度”=土曜二時』

『了解。傘はいらない天気だ』

 文字の温度に、胸の奥が静かにあたたまる。
 白茶の香りが、ゆっくり夜に溶けていった。
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