副社長と仮初めの指輪
第15章「真犯人の動機(PRの涙と誤解の回収)」
朝いちばん、CSIRT(情報セキュリティ)から七海宛てに共有が入ったと、秘書室経由で知らされた。件名は端的だ——「スキャン送信事案/容疑者特定の見込み」。
私は白茶のロールオンを手首にひとすべり。右側に空間を確保する動線をたどって総務の島へ戻る。紙の粉塵と朱肉の匂いが、心拍の足場を作ってくれる。
十時、会議室D。薄い光。七海、法務、CSIRTの担当、そして彼。空気の密度は高いが、温度は低い。テーブルの端に、USBメモリと印刷数枚。
「昨夜のプリンタ前カメラのフレーム解析、加えて入退館・PCログ、パターン照合を重ねた」
CSIRTの担当が、落ち着いた声で言う。「“親指だけ立てるタイピング”の癖、社内サンプルの中に一致が一件」
ドアがノックされる。七海が「入って」と言い、若い女性が入室した。PR本部のバッジ、薄いグレーのカーディガン。見覚えがある。社内ラウンジで何度か見かけたアシスタント——芹沢。
彼女は椅子の背に手を乗せ、指の先をそろえた。親指だけが、かすかに立っている。
「芹沢さん」
七海の声は、職務の音だ。「昨夜二十三時台のスキャン送信について、確認したい」
「はい……」
CSIRTが紙を一枚、彼女の前へ差し出す。プリンタPINの入力映像のスチルと、入退館ログのタイムライン。
芹沢は視線を落とし、唇を一度かみ、吐息で離した。
「——私です」
空気が、ひとつだけ沈む。七海のまぶたがほんの一瞬閉じ、すぐに開いた。
「どうして」
問いは短い。芹沢は肩をすぼめ、言葉を探すみたいに舌を動かし、それから、こぼすように話し始めた。
「……“守りたかった”んです。会社を。合併のクロージング、ぜんぶ、空気が張りつめてる。広報が“火消し”以上の価値を見せないと、席が減るかもしれない。私は、実績がない。だから、“火を見せて、消す”をやってみたら、評価されるって——ばかでした」
私は息を止めた。七海は遮らない。芹沢は、続ける。
「“演出”の言葉、まとめサイトに投げたら、噂は一気に走る。そこへ“第三者の解説記事”を流し込めば、“安全の配慮”へ話が戻る。……そうやって“PRの必要性”を可視化できる。そう思ったんです。動線メモに注釈があったのは知りませんでした。S.Maoなんて、残ってるって」
「PINは」
CSIRTが淡々と重ねる。
「総務の島で、四日前。コピー機の列で、佐伯さんが入力するのを、後ろから……覚えました。ごめんなさい」
皮膚の内側で、冷たいものがひとつ通り過ぎる。右手ではない。でも、境界線がきゅっと細くなる音がした。
「匿名メールの“白茶”と“S.”は」
七海の声は低く、まっすぐだった。
「“白茶”は、ラウンジで佐伯さんが手首につけるのを見て。S.は、あのPDFの“S.Mao”から。……悪ふざけでした。ほんとうに、ごめんなさい」
部屋が静かになる。蛍光灯のかすかな唸りだけが、天井のどこかで続いている。
「——芹沢」
七海が初めて名字を呼んだ。仕事の場で、やわらかさの芯が少しだけ見える呼び方だった。「“守る”は、燃やしてからじゃない。あなたの火は、誰かの生活に触れた」
「はい」
芹沢の目に、光が瞬く。「七海さんのチームで、結果がほしかった。あなたみたいに、現場で“温度”を計れる人になりたかった。……でも、私は“温度”じゃなくて“数字”しか見てなかった。最悪です」
七海の喉が小さく上下し、視線が一瞬だけ揺れる。
彼は、短く息を吸って吐いた。
「処分は、会社が決める」
彼の声は平らで、冷たくない。「ただ、これは刑罰の線引きの話ではなく、人の線引きの話でもある。——佐伯さん」
名を呼ばれ、私は立ち上がりそうになる膝を押しとどめ、言葉を選ぶ。
「……“無視&保全”の運用は続けます。匿名の挑発には応答しません。でも、私は、今日、“名前で呼ぶ”と決めたいです」
芹沢が、はっと顔を上げた。私は白茶をひとすべり、輪郭を確かめる。
「芹沢さん。あなたのしてしまったことは、私の輪郭に触れました。痛かったです。でも、あなたの“守りたい”を、私は“ゼロ”にしません。ゼロにすると、私の“守りたい”も軽くなるから。——だから、あなたの火を、仕事の火に変えるルールを、七海さんと作ってください。二度と、生活に触れない火で」
沈黙の中で、紙の端が小さく鳴る。七海が、視線だけで私に短く礼をした。芹沢の目から、音のない涙が一筋落ちる。
「ごめんなさい。……ありがとうございます」
法務が議事録に線を引き、CSIRTが処理の段取りを淡々と伝える。入退館権限の一時停止、機密取扱の解除、メンタルケア窓口の案内、そして——再発防止のインナーセミナーに芹沢が登壇すること。燃やすのではなく、温度を計る側に立ってもらう、という決定。
会議室を出ると、廊下の角で七海が立ち止まり、私の方へほんの半歩だけ寄ってきた。距離は“息が混ざらない”。
それでも、彼女の目は近かった。
「……ごめん」
それは上司の謝罪ではなく、ひとりの現場の人間の言葉だった。私は首を横に振る。
「“附則”、覚えています。——『演出の外で泣かないは、泣きたい日に限り、解除可』」
七海が、ふっと笑って、次の瞬間、涙をこぼした。ほんの一滴。すぐに拭って、口角だけ上げる。
「解除、ね。今日は、いい日だ」
「はい。いい日です」
午後、社内チャットに“誤解の回収”が上がった。記事ではない。広報本部からの小さな読みもの——“動線の安全配慮”の説明。
——写真に写る距離は関係の温度ではなく、労務安全の設計です。
——“週一枚”は業務の透明化のためで、生活の暴露ではありません。
——“ネクタイを直す”は業務習慣であり、個人の関係性では測れません。
文末の一点だけ、七海の手の体温が滲んでいた。
——“怖いときは、怖いと言ってください”。守る手は、会社にも、あなた自身にも、あります。
タイムラインに“目”のスタンプはつかない。代わりに、小さな拍手がいくつか、静かに並ぶ。
夕方、総務の島へ経営企画の女性が来た。以前、封筒で“守ります”と書いてくれた人だ。
彼女は私のデスクの端に付箋をひとつ置く。
『“誤報誘導”の外側で、会社は学び直してます。——“週一枚”は、あなたの生活ではない。』
私は笑い、深く礼をした。
定時後、ラウンジで水を受け取る。窓の外、薄い夕焼け。右側は空けて、左に彼が立つ。七海は少し離れた席で端末に向かっている。
彼が静かに言った。
「今日、ありがとう。——“名前で呼ぶ”は、難しい選択だ」
「“ゼロにしない”って、私のわがままです」
「いいわがままだ。会社は、人のわがままで守られることもある」
彼は声の温度を変えずに、言葉を足した。
「七海の涙は、僕の責任でもある。長い時間、結果に偏った文化を許してきた。……だから、僕らは更新する。文化を」
「“附則”に、入れてください」
「入れよう」
夜、裏ゲートまでの廊下。角を曲がると、芹沢が立っていた。背筋を伸ばし、両手を前で組む。
私は歩幅を崩さずに近づく。彼女は深く頭を下げた。
「改めて——申し訳ありませんでした。……佐伯さん」
「顔を上げてください」
彼女はゆっくり顔を上げる。目は赤いけれど、まっすぐだ。
「再発防止の場で、話します。私が“数字”しか見なかったことで、どんな音が消えたか。……“白茶”の一行を、もう二度と使いません」
「ありがとう」
通り過ぎるとき、七海が彼女の肩に軽く触れ、すぐ離した。業務上の確認の距離。
——“温度”が、戻っている。
駅までの道、スマホが震えた。差出人不明——ではない。父だ。
『薬、飲んだ。しょっぱいの、我慢。仕事、がんばれ』
私は笑いながら「了解」と返す。白茶をひとすべり。
その直後、彼からも一行。
『W.T. “誤解”、回収できた?』
『W.T. はい。“名前で呼ぶ”を選びました』
『Good. 君の輪郭は、君の名前で太くなる』
『覚えておきます』
家に着くと、玄関の灯りは穏やかだ。指輪を外さず、キッチンで白湯を沸かす。湯気が天井の灯りにふわりと溶ける。
テーブルに封筒——屋上でもらった「条項案」を広げ、余白に今日の一行を加えた。
六、名前で呼ぶことは、誰かを燃やすためではなく、温度を計るために。
ペン先が止まる。胸の奥で、小さな音が鳴った。
スマホがもう一度だけ震える。七海だ。
『明朝、社内チャットに“動線=労務安全”の図解を出す。——“温度”の話は、紙にもしるしを』
『ありがとうございます。“附則:泣きたい日は解除可”、今日、効きました』
『効いてよかった。……おやすみ』
『おやすみなさい』
灯りを落とす。暗がりで、左手の“W.T.”が小さく光る。
——真犯人の動機は、“守りたい”だった。
間違った守り方は、誰かを傷つける。
でも、それを“ゼロ”にしないで、仕事の火に変えていく方法を、私たちは選べる。
白茶の香りが、ゆっくり夜に溶けていった。
私は白茶のロールオンを手首にひとすべり。右側に空間を確保する動線をたどって総務の島へ戻る。紙の粉塵と朱肉の匂いが、心拍の足場を作ってくれる。
十時、会議室D。薄い光。七海、法務、CSIRTの担当、そして彼。空気の密度は高いが、温度は低い。テーブルの端に、USBメモリと印刷数枚。
「昨夜のプリンタ前カメラのフレーム解析、加えて入退館・PCログ、パターン照合を重ねた」
CSIRTの担当が、落ち着いた声で言う。「“親指だけ立てるタイピング”の癖、社内サンプルの中に一致が一件」
ドアがノックされる。七海が「入って」と言い、若い女性が入室した。PR本部のバッジ、薄いグレーのカーディガン。見覚えがある。社内ラウンジで何度か見かけたアシスタント——芹沢。
彼女は椅子の背に手を乗せ、指の先をそろえた。親指だけが、かすかに立っている。
「芹沢さん」
七海の声は、職務の音だ。「昨夜二十三時台のスキャン送信について、確認したい」
「はい……」
CSIRTが紙を一枚、彼女の前へ差し出す。プリンタPINの入力映像のスチルと、入退館ログのタイムライン。
芹沢は視線を落とし、唇を一度かみ、吐息で離した。
「——私です」
空気が、ひとつだけ沈む。七海のまぶたがほんの一瞬閉じ、すぐに開いた。
「どうして」
問いは短い。芹沢は肩をすぼめ、言葉を探すみたいに舌を動かし、それから、こぼすように話し始めた。
「……“守りたかった”んです。会社を。合併のクロージング、ぜんぶ、空気が張りつめてる。広報が“火消し”以上の価値を見せないと、席が減るかもしれない。私は、実績がない。だから、“火を見せて、消す”をやってみたら、評価されるって——ばかでした」
私は息を止めた。七海は遮らない。芹沢は、続ける。
「“演出”の言葉、まとめサイトに投げたら、噂は一気に走る。そこへ“第三者の解説記事”を流し込めば、“安全の配慮”へ話が戻る。……そうやって“PRの必要性”を可視化できる。そう思ったんです。動線メモに注釈があったのは知りませんでした。S.Maoなんて、残ってるって」
「PINは」
CSIRTが淡々と重ねる。
「総務の島で、四日前。コピー機の列で、佐伯さんが入力するのを、後ろから……覚えました。ごめんなさい」
皮膚の内側で、冷たいものがひとつ通り過ぎる。右手ではない。でも、境界線がきゅっと細くなる音がした。
「匿名メールの“白茶”と“S.”は」
七海の声は低く、まっすぐだった。
「“白茶”は、ラウンジで佐伯さんが手首につけるのを見て。S.は、あのPDFの“S.Mao”から。……悪ふざけでした。ほんとうに、ごめんなさい」
部屋が静かになる。蛍光灯のかすかな唸りだけが、天井のどこかで続いている。
「——芹沢」
七海が初めて名字を呼んだ。仕事の場で、やわらかさの芯が少しだけ見える呼び方だった。「“守る”は、燃やしてからじゃない。あなたの火は、誰かの生活に触れた」
「はい」
芹沢の目に、光が瞬く。「七海さんのチームで、結果がほしかった。あなたみたいに、現場で“温度”を計れる人になりたかった。……でも、私は“温度”じゃなくて“数字”しか見てなかった。最悪です」
七海の喉が小さく上下し、視線が一瞬だけ揺れる。
彼は、短く息を吸って吐いた。
「処分は、会社が決める」
彼の声は平らで、冷たくない。「ただ、これは刑罰の線引きの話ではなく、人の線引きの話でもある。——佐伯さん」
名を呼ばれ、私は立ち上がりそうになる膝を押しとどめ、言葉を選ぶ。
「……“無視&保全”の運用は続けます。匿名の挑発には応答しません。でも、私は、今日、“名前で呼ぶ”と決めたいです」
芹沢が、はっと顔を上げた。私は白茶をひとすべり、輪郭を確かめる。
「芹沢さん。あなたのしてしまったことは、私の輪郭に触れました。痛かったです。でも、あなたの“守りたい”を、私は“ゼロ”にしません。ゼロにすると、私の“守りたい”も軽くなるから。——だから、あなたの火を、仕事の火に変えるルールを、七海さんと作ってください。二度と、生活に触れない火で」
沈黙の中で、紙の端が小さく鳴る。七海が、視線だけで私に短く礼をした。芹沢の目から、音のない涙が一筋落ちる。
「ごめんなさい。……ありがとうございます」
法務が議事録に線を引き、CSIRTが処理の段取りを淡々と伝える。入退館権限の一時停止、機密取扱の解除、メンタルケア窓口の案内、そして——再発防止のインナーセミナーに芹沢が登壇すること。燃やすのではなく、温度を計る側に立ってもらう、という決定。
会議室を出ると、廊下の角で七海が立ち止まり、私の方へほんの半歩だけ寄ってきた。距離は“息が混ざらない”。
それでも、彼女の目は近かった。
「……ごめん」
それは上司の謝罪ではなく、ひとりの現場の人間の言葉だった。私は首を横に振る。
「“附則”、覚えています。——『演出の外で泣かないは、泣きたい日に限り、解除可』」
七海が、ふっと笑って、次の瞬間、涙をこぼした。ほんの一滴。すぐに拭って、口角だけ上げる。
「解除、ね。今日は、いい日だ」
「はい。いい日です」
午後、社内チャットに“誤解の回収”が上がった。記事ではない。広報本部からの小さな読みもの——“動線の安全配慮”の説明。
——写真に写る距離は関係の温度ではなく、労務安全の設計です。
——“週一枚”は業務の透明化のためで、生活の暴露ではありません。
——“ネクタイを直す”は業務習慣であり、個人の関係性では測れません。
文末の一点だけ、七海の手の体温が滲んでいた。
——“怖いときは、怖いと言ってください”。守る手は、会社にも、あなた自身にも、あります。
タイムラインに“目”のスタンプはつかない。代わりに、小さな拍手がいくつか、静かに並ぶ。
夕方、総務の島へ経営企画の女性が来た。以前、封筒で“守ります”と書いてくれた人だ。
彼女は私のデスクの端に付箋をひとつ置く。
『“誤報誘導”の外側で、会社は学び直してます。——“週一枚”は、あなたの生活ではない。』
私は笑い、深く礼をした。
定時後、ラウンジで水を受け取る。窓の外、薄い夕焼け。右側は空けて、左に彼が立つ。七海は少し離れた席で端末に向かっている。
彼が静かに言った。
「今日、ありがとう。——“名前で呼ぶ”は、難しい選択だ」
「“ゼロにしない”って、私のわがままです」
「いいわがままだ。会社は、人のわがままで守られることもある」
彼は声の温度を変えずに、言葉を足した。
「七海の涙は、僕の責任でもある。長い時間、結果に偏った文化を許してきた。……だから、僕らは更新する。文化を」
「“附則”に、入れてください」
「入れよう」
夜、裏ゲートまでの廊下。角を曲がると、芹沢が立っていた。背筋を伸ばし、両手を前で組む。
私は歩幅を崩さずに近づく。彼女は深く頭を下げた。
「改めて——申し訳ありませんでした。……佐伯さん」
「顔を上げてください」
彼女はゆっくり顔を上げる。目は赤いけれど、まっすぐだ。
「再発防止の場で、話します。私が“数字”しか見なかったことで、どんな音が消えたか。……“白茶”の一行を、もう二度と使いません」
「ありがとう」
通り過ぎるとき、七海が彼女の肩に軽く触れ、すぐ離した。業務上の確認の距離。
——“温度”が、戻っている。
駅までの道、スマホが震えた。差出人不明——ではない。父だ。
『薬、飲んだ。しょっぱいの、我慢。仕事、がんばれ』
私は笑いながら「了解」と返す。白茶をひとすべり。
その直後、彼からも一行。
『W.T. “誤解”、回収できた?』
『W.T. はい。“名前で呼ぶ”を選びました』
『Good. 君の輪郭は、君の名前で太くなる』
『覚えておきます』
家に着くと、玄関の灯りは穏やかだ。指輪を外さず、キッチンで白湯を沸かす。湯気が天井の灯りにふわりと溶ける。
テーブルに封筒——屋上でもらった「条項案」を広げ、余白に今日の一行を加えた。
六、名前で呼ぶことは、誰かを燃やすためではなく、温度を計るために。
ペン先が止まる。胸の奥で、小さな音が鳴った。
スマホがもう一度だけ震える。七海だ。
『明朝、社内チャットに“動線=労務安全”の図解を出す。——“温度”の話は、紙にもしるしを』
『ありがとうございます。“附則:泣きたい日は解除可”、今日、効きました』
『効いてよかった。……おやすみ』
『おやすみなさい』
灯りを落とす。暗がりで、左手の“W.T.”が小さく光る。
——真犯人の動機は、“守りたい”だった。
間違った守り方は、誰かを傷つける。
でも、それを“ゼロ”にしないで、仕事の火に変えていく方法を、私たちは選べる。
白茶の香りが、ゆっくり夜に溶けていった。