副社長と仮初めの指輪
第16章「白いタルトの午後(会いたいの練習)」
土曜の朝、予定の一行が先に届いた。
『本日14時、白いタルトの店で。——左から合流、右に空間』
私は笑って、短く返す。
『了解。白茶、少し強めに。会いたい、の練習を』
キッチンで白湯を沸かし、ボトルに注ぐ。窓の外は薄く晴れ、風はほとんどない。父からは「塩、がまん」とだけ届いていた。私は親指で“了解”のスタンプを押し、左手の“W.T.”を軽くなぞる。——今日は“条項の休日二時間”。紙に刻んだ線の上で、私たちは会う。
身支度を整える。右側に空間を作れる肩掛けのバッグ、動きやすいローヒール。白茶のロールオンを手首に一滴、そしてもう一滴。輪郭を描き直す。
駅へ向かう途中、七海から一行。
『“週一枚”、今日は帰りに会社の前で十秒だけ。ラウンジ前の植え込みで“距離の写真”』
『了解。生活の写真はゼロで』
『もちろん。——甘いもの、楽しんで』
電車は空いていた。車内の蛍光灯に、指輪が小さく光る。揺れのリズムに合わせて呼吸を整え、二駅。改札を抜けると、商店街の角に白い日除けが見えた。小さな店、ショーケースの向こうに、泡のようなクリームと、薄く光るグレーズ。
入口のすぐ手前で、彼がいた。約束どおり左から。紺のシャツ、ジャケットは柔らかい素材。視線が一瞬だけ触れ、同時にほどける。距離は、息が混ざらないくらい。
「待たせましたか」
「ぴったり」
扉が開くと、甘い匂いが静かに満ちた。店内は六席だけ。白いテーブルクロスに、銀のフォーク。壁の時計が小さく時を刻む。
「おすすめは?」と私が問うと、彼はメニューに視線を落とし、すぐに答えた。
「レモンのタルト。——“白い”の正体」
「では、それを」
席は窓際。私は右を壁に、左を彼側にする。右側に空間。左側に、彼の呼吸の温度。皿が運ばれるまでの静けさが、やわらかい。
「“会いたい”の練習」
彼が、冗談の温度をほんの少し混ぜながら言う。「先に言う?」
「言います。……会いたかったです」
言ってみると、驚くほど短かった。けれど、舌の上で転がる前に、胸の内側に吸いこまれていった。彼は笑いもせず、まっすぐにうなずく。
「会いたかった。——合意」
皿が届いた。雪のようなクリームに、薄く透けるレモン。フォークの先で崩すと、音がしない。ひと口。酸味が先に来て、すぐに甘さが追いかけてくる。舌が驚いて、次の瞬間に納得した。
「……静かな味ですね」
「うん。声を上げない甘さ」
彼もひと口食べ、少しの間を置いてから続けた。
「“会いたい”を言う練習は、いくつか段階を作ろう。——言葉で言う、メッセージで言う、予定の一行に入れる。最後は、黙って会う」
「黙って?」
「うん。合流もしない。——“同じ店にいることを、知っている”。それも、会いたいの一種だと思うから」
不意打ちみたいに胸が明るくなる。私はフォークを置き、白茶を吸い込んでから、うなずいた。
「いい練習です。順番、紙に書いておきます」
「紙好きだね」
「“紙に刻む”のが、私の仕事ですから」
二人で少し笑った。グラスの水が、光を細く折り返す。
タルトの三角形がゆっくり小さくなっていくあいだ、職場の話は出さなかった。父の通院のことも、駅の混雑のことも、白湯の温度の話も、順番に置いていく。
「これ、よかったら」
彼が小さな缶を差し出した。白いラベルに、銀の文字。ソリッドタイプの白茶。
「香り、遠出の時に便利かなと思って」
「ありがとうございます。——触れずに受け取れるサイズ」
「うん。左から渡せる」
缶を胸ポケットに滑り込ませる。小さな音がして、落ち着く。
店を出ると、午後の光は少し黄色かった。約束の二時間の半分が過ぎたところだ。通り過ぎる子どもが、ショーケースの前で跳ねている。
「少し歩きますか」
「歩こう。右に空間で」
商店街を抜け、小さな公園へ。ベンチは二つ。私たちは別々の端に腰を下ろす。真ん中に、手の届かない距離。風が低く、木の影が薄い格子を地面に落とす。
「“左から近づいてほしい”」
私が言うと、彼は半歩だけ左に寄る仕草をして、でも座る位置は変えなかった。
「ここでいい?」
「はい。その距離が、今日の“ちょうどいい”です」
「了解」
ベンチの前に、小さなすべり台。子どもが一人、慎重に階段を上り、真ん中で迷って、結局後ろに降りる。母親が笑い、子どもは少し怒る。生活の音はやわらかい。
「芹沢さん、月曜に“再発防止”で話すそうです」
私が言うと、彼は短くうなずいた。
「見守る。——守る手が、数字を超える瞬間を」
「はい。私も、名前で呼びます」
沈黙が落ち、風の温度が少しだけ変わる。遠くの道路を一台のバスが通り抜け、時刻表どおりの音を置いていく。
「……もう一段、練習してもいい?」
彼が言った。
「どんな?」
「“会いたい”を、理由なしで言う。——『会いたいから会いたい』」
私は笑い、すぐに真顔に戻る。
「会いたいから、会いたいです」
「僕も。会いたいから、会いたい」
胸の奥に、紙のような音がした。薄いのに、輪郭がはっきりする音。
彼が腕時計を見て、立ち上がる。二時間の、終わりが近い。
「会社の前で“週一枚”。——十秒だけ」
「はい。植え込みで、距離」
駅へ戻る道すがら、彼は半歩だけ後ろを歩いた。右は空、左に彼。交差点で止まり、信号が変わる。歩道橋の影が、私たちの靴を短く切った。
会社の前。ラウンジのガラスに、午前の光の残りが薄く張りついている。植え込みの前で立ち位置を合わせると、七海が現れた。薄桃色のジャケットではなく、今日はグレー。端末を構え、口角だけで笑う。
「——十秒」
「お願いします」
シャッター音は小さかった。距離の写真。左に彼、右に空。私の視線は二メートル先。彼は少し下を見ている。
七海はすぐに端末を下ろし、短く言った。
「よかった。——甘いもの、どうだった?」
「静かな、甘さでした」
「合併前に、こういう日があるのは、大事ね」
「附則、効いてます」
七海が目だけで笑い、去っていく。私たちも足を返した。二時間の針は、もう最後の目盛りに触れている。
「駅は、あっち」
「私はこっち」
「合流は、しない」
「はい。……今日の二時間、ありがとうございました」
「礼は不要。——僕からも、言っていい?」
「どうぞ」
「また、会いたい」
胸の奥が、明るくなる。私はうなずく。
「はい。また、会いたいです」
別々の方向に歩き出す。角を曲がる前に、彼の声が届いた。
「月曜の朝、“予定の一行”で、会いたいを一回」
「了解。合意」
夕方、家に戻ると、玄関の灯りは穏やかだった。白湯を沸かし、テーブルの上に今日の缶を置く。白いラベルが、キッチンの明かりを小さく返す。
父からまた一行。「ゼリー、うまい」。私は笑って「買っておく」と返す。
夜。七海から、社内チャットに“週一枚”の写真が限定公開で上がった。コメント欄には、何もない。小さな拍手だけが、いくつか並ぶ。
その下に、法務と広報連名の短い文。
——本写真は“動線の安全配慮”に基づく。
——生活の暴露を目的としない。
——“怖い時は、怖いと言ってください”。
私は深く息を吐き、指輪の内側を親指でなぞる。
スマホが震えた。彼からだ。
『W.T. 今日の“静かな甘さ”、効いた?』
『W.T. 効きました。会いたい、言えました』
『Good. “黙って会う”の段階は、来月の附則に』
『了解。紙に刻みます』
送信して、灯りを落とす。暗がりで、白茶の香りがゆっくり広がる。
——“会いたい”は、条項にも載る言葉になれる。
そう思うと、胸の中の紙がもう一枚増えた気がした。
輪郭は、今日も私のもの。甘さは声を上げないけれど、確かにそこにあった。
目を閉じる前に、もう一度だけ短く打つ。
『W.T. おやすみなさい』
数秒後、返事。
『W.T. 次の甘いものまで、会いたいを一回ずつ』
私は笑い、目を閉じた。
静かな甘さが、夜に深く溶けていった。
『本日14時、白いタルトの店で。——左から合流、右に空間』
私は笑って、短く返す。
『了解。白茶、少し強めに。会いたい、の練習を』
キッチンで白湯を沸かし、ボトルに注ぐ。窓の外は薄く晴れ、風はほとんどない。父からは「塩、がまん」とだけ届いていた。私は親指で“了解”のスタンプを押し、左手の“W.T.”を軽くなぞる。——今日は“条項の休日二時間”。紙に刻んだ線の上で、私たちは会う。
身支度を整える。右側に空間を作れる肩掛けのバッグ、動きやすいローヒール。白茶のロールオンを手首に一滴、そしてもう一滴。輪郭を描き直す。
駅へ向かう途中、七海から一行。
『“週一枚”、今日は帰りに会社の前で十秒だけ。ラウンジ前の植え込みで“距離の写真”』
『了解。生活の写真はゼロで』
『もちろん。——甘いもの、楽しんで』
電車は空いていた。車内の蛍光灯に、指輪が小さく光る。揺れのリズムに合わせて呼吸を整え、二駅。改札を抜けると、商店街の角に白い日除けが見えた。小さな店、ショーケースの向こうに、泡のようなクリームと、薄く光るグレーズ。
入口のすぐ手前で、彼がいた。約束どおり左から。紺のシャツ、ジャケットは柔らかい素材。視線が一瞬だけ触れ、同時にほどける。距離は、息が混ざらないくらい。
「待たせましたか」
「ぴったり」
扉が開くと、甘い匂いが静かに満ちた。店内は六席だけ。白いテーブルクロスに、銀のフォーク。壁の時計が小さく時を刻む。
「おすすめは?」と私が問うと、彼はメニューに視線を落とし、すぐに答えた。
「レモンのタルト。——“白い”の正体」
「では、それを」
席は窓際。私は右を壁に、左を彼側にする。右側に空間。左側に、彼の呼吸の温度。皿が運ばれるまでの静けさが、やわらかい。
「“会いたい”の練習」
彼が、冗談の温度をほんの少し混ぜながら言う。「先に言う?」
「言います。……会いたかったです」
言ってみると、驚くほど短かった。けれど、舌の上で転がる前に、胸の内側に吸いこまれていった。彼は笑いもせず、まっすぐにうなずく。
「会いたかった。——合意」
皿が届いた。雪のようなクリームに、薄く透けるレモン。フォークの先で崩すと、音がしない。ひと口。酸味が先に来て、すぐに甘さが追いかけてくる。舌が驚いて、次の瞬間に納得した。
「……静かな味ですね」
「うん。声を上げない甘さ」
彼もひと口食べ、少しの間を置いてから続けた。
「“会いたい”を言う練習は、いくつか段階を作ろう。——言葉で言う、メッセージで言う、予定の一行に入れる。最後は、黙って会う」
「黙って?」
「うん。合流もしない。——“同じ店にいることを、知っている”。それも、会いたいの一種だと思うから」
不意打ちみたいに胸が明るくなる。私はフォークを置き、白茶を吸い込んでから、うなずいた。
「いい練習です。順番、紙に書いておきます」
「紙好きだね」
「“紙に刻む”のが、私の仕事ですから」
二人で少し笑った。グラスの水が、光を細く折り返す。
タルトの三角形がゆっくり小さくなっていくあいだ、職場の話は出さなかった。父の通院のことも、駅の混雑のことも、白湯の温度の話も、順番に置いていく。
「これ、よかったら」
彼が小さな缶を差し出した。白いラベルに、銀の文字。ソリッドタイプの白茶。
「香り、遠出の時に便利かなと思って」
「ありがとうございます。——触れずに受け取れるサイズ」
「うん。左から渡せる」
缶を胸ポケットに滑り込ませる。小さな音がして、落ち着く。
店を出ると、午後の光は少し黄色かった。約束の二時間の半分が過ぎたところだ。通り過ぎる子どもが、ショーケースの前で跳ねている。
「少し歩きますか」
「歩こう。右に空間で」
商店街を抜け、小さな公園へ。ベンチは二つ。私たちは別々の端に腰を下ろす。真ん中に、手の届かない距離。風が低く、木の影が薄い格子を地面に落とす。
「“左から近づいてほしい”」
私が言うと、彼は半歩だけ左に寄る仕草をして、でも座る位置は変えなかった。
「ここでいい?」
「はい。その距離が、今日の“ちょうどいい”です」
「了解」
ベンチの前に、小さなすべり台。子どもが一人、慎重に階段を上り、真ん中で迷って、結局後ろに降りる。母親が笑い、子どもは少し怒る。生活の音はやわらかい。
「芹沢さん、月曜に“再発防止”で話すそうです」
私が言うと、彼は短くうなずいた。
「見守る。——守る手が、数字を超える瞬間を」
「はい。私も、名前で呼びます」
沈黙が落ち、風の温度が少しだけ変わる。遠くの道路を一台のバスが通り抜け、時刻表どおりの音を置いていく。
「……もう一段、練習してもいい?」
彼が言った。
「どんな?」
「“会いたい”を、理由なしで言う。——『会いたいから会いたい』」
私は笑い、すぐに真顔に戻る。
「会いたいから、会いたいです」
「僕も。会いたいから、会いたい」
胸の奥に、紙のような音がした。薄いのに、輪郭がはっきりする音。
彼が腕時計を見て、立ち上がる。二時間の、終わりが近い。
「会社の前で“週一枚”。——十秒だけ」
「はい。植え込みで、距離」
駅へ戻る道すがら、彼は半歩だけ後ろを歩いた。右は空、左に彼。交差点で止まり、信号が変わる。歩道橋の影が、私たちの靴を短く切った。
会社の前。ラウンジのガラスに、午前の光の残りが薄く張りついている。植え込みの前で立ち位置を合わせると、七海が現れた。薄桃色のジャケットではなく、今日はグレー。端末を構え、口角だけで笑う。
「——十秒」
「お願いします」
シャッター音は小さかった。距離の写真。左に彼、右に空。私の視線は二メートル先。彼は少し下を見ている。
七海はすぐに端末を下ろし、短く言った。
「よかった。——甘いもの、どうだった?」
「静かな、甘さでした」
「合併前に、こういう日があるのは、大事ね」
「附則、効いてます」
七海が目だけで笑い、去っていく。私たちも足を返した。二時間の針は、もう最後の目盛りに触れている。
「駅は、あっち」
「私はこっち」
「合流は、しない」
「はい。……今日の二時間、ありがとうございました」
「礼は不要。——僕からも、言っていい?」
「どうぞ」
「また、会いたい」
胸の奥が、明るくなる。私はうなずく。
「はい。また、会いたいです」
別々の方向に歩き出す。角を曲がる前に、彼の声が届いた。
「月曜の朝、“予定の一行”で、会いたいを一回」
「了解。合意」
夕方、家に戻ると、玄関の灯りは穏やかだった。白湯を沸かし、テーブルの上に今日の缶を置く。白いラベルが、キッチンの明かりを小さく返す。
父からまた一行。「ゼリー、うまい」。私は笑って「買っておく」と返す。
夜。七海から、社内チャットに“週一枚”の写真が限定公開で上がった。コメント欄には、何もない。小さな拍手だけが、いくつか並ぶ。
その下に、法務と広報連名の短い文。
——本写真は“動線の安全配慮”に基づく。
——生活の暴露を目的としない。
——“怖い時は、怖いと言ってください”。
私は深く息を吐き、指輪の内側を親指でなぞる。
スマホが震えた。彼からだ。
『W.T. 今日の“静かな甘さ”、効いた?』
『W.T. 効きました。会いたい、言えました』
『Good. “黙って会う”の段階は、来月の附則に』
『了解。紙に刻みます』
送信して、灯りを落とす。暗がりで、白茶の香りがゆっくり広がる。
——“会いたい”は、条項にも載る言葉になれる。
そう思うと、胸の中の紙がもう一枚増えた気がした。
輪郭は、今日も私のもの。甘さは声を上げないけれど、確かにそこにあった。
目を閉じる前に、もう一度だけ短く打つ。
『W.T. おやすみなさい』
数秒後、返事。
『W.T. 次の甘いものまで、会いたいを一回ずつ』
私は笑い、目を閉じた。
静かな甘さが、夜に深く溶けていった。