副社長と仮初めの指輪
エピローグ「輪郭の合意書、紙から生活へ」
合併のクロージングが完了した朝、社内掲示板に短い通知が出た。
——“契約婚約”運用を、本日で終了します。
——“動線の安全配慮”は恒久ルールとして残置。
——“週一枚”の写真運用は終了。
文字は端的で、静かだった。私は白茶のロールオンを手首に一滴、深呼吸してから、左手の“W.T.”を親指でそっとなでる。紙に刻んだ線が、生活のほうに移動する音がした。
昼休み、ラウンジの空気はいつもより軽い。七海が離れた席で端末を閉じ、こちらを一度だけ見て、——ネクタイを直さない。附則は、もう自然に運用されている。
桜庭は「鯖、今日はあるぞ」と言って笑い、黙って私の右側を空けてくれた。伴走の足音は、相変わらず必要最小限で、必要十分だ。
午後、庶務の山を片づける。印鑑、在庫、来客茶、紙詰まり。単純な手順を辿る指が、心拍を地面に結びつけてくれる。匿名の受信は、来ない。代わりに、経営企画の女性が一言だけ送ってくる——『“週ゼロ枚”、いいね』。
私は「了解」と返し、画面を閉じた。
終業の少し前、短いメッセージ。
『今日、黙って会う。——同じ店、別の席。十五分だけ』
約束の“会いたいの練習”の最終段階。私は「合意」と返す。
退社後、あの白いタルトの店の、奥と手前。私たちは互いを見ない席に座り、別々の水を飲む。扉の鈴、グラスの音、フォークが皿に触れる気配。
“同じ店にいることを、知っている”。それだけで、胸の輪郭がゆっくり整う。十五分。時計の針がひと目盛り進む。私は白茶を吸い、立ち上がる。彼は座ったまま、視線を動かさない。合流はしない。
店を出た歩道で、スマホが震く。
『W.T. “黙って会う”、成立?』
『W.T. 成立。静かな甘さ、今日もありました』
『Good. 紙の条項は、生活の通路へ』
会社に戻らない夜は、音がやわらかい。駅へ向かう途中で、父からも一行——『塩、がまん。ゼリー、またうまい』。私は笑い、「了解」と返す。
白湯のボトルは、相変わらず掌にちょうどいい。輪郭の道具は、増えもしないし、減りもしない。
週明け。総務の島に、薄い封筒が一つ届いていた。差出人は法務兼広報。
——“動線の安全配慮”最終版(恒久)。
末尾の附則に、小さな追記があった。
——“痛い時は外す”。
——“怖い時は怖いと言う”。
——“会いたいは、言ってよい”。
紙のざらりとした手触りが、指先の奥で温かい。私は封筒を胸ポケットに入れ、左手のリングを親指で撫でた。
その日の夕刻、役員フロアの角で彼とすれ違う。距離は変えない。右に空間、左から視線。視線だけで挨拶を交換し、通り過ぎる直前、彼が低く言う。
「——“本体”、用意できた」
呼吸が一つ、丁寧になる。「仮」の名を持つ小さな輪は、ずっと私の生活を支えてきた。けれど、今は“契約”ではなく“生活”の側から、同じ形を選び直せる。
会議室C。白い小箱。蓋を上げると、内側の刻印はそのまま“W.T.”、横に小さく点が一つ増えている。
“W.T.•”
白茶と、点。息の置き場所みたいな、小さな合意点。私は笑った。
「“本物”って、こういう微差で十分なんですね」
「うん。過去と今日をつなぐ、点」
「——合意します」
左に滑らせる。重さは変わらないのに、音が少しだけ深くなった気がした。
夜。裏ゲートまでの廊下を並んで歩く。合流はしない。ドアの風が来る手前で立ち止まり、彼が言う。
「順序は、同じのままでいこう。会社と人、同時に。——それから、君の名字は、君のもの」
「はい。私の輪郭は、私のものです」
互いに一礼して離れる。駅までの道で、七海から一行。
『“ネクタイを直さない”は継続。“温度”は、自分たちで測れるでしょ』
『了解。——附則、紙に残しておきます』
『残して、忘れないで、時々更新して』
更新。文化は紙で始まり、生活で続く。
家に着くと、玄関の灯りが穏やかだ。白湯を沸かし、ボトルに注ぐ。湯気が天井にほどける。
スマホが震えた。彼から。
『W.T. Good night』
私は指先でリングの点をなぞり、短く返す。
『W.T. “会いたい”は、明朝の予定の一行で』
送信。画面の光が落ちる。
——演出ではなく、設計。台本ではなく、通路。
“契約”が終わっても残ったのは、紙に刻んだ線ではなく、その線の上を歩く癖だった。右に空間、左から近づく。痛い時は外す。怖い時は怖いと言う。会いたいは言っていい。
輪郭は、今日も私のもの。
そして、私たちの“点”は、静かに増えていく。白茶の香りと一緒に。
——“契約婚約”運用を、本日で終了します。
——“動線の安全配慮”は恒久ルールとして残置。
——“週一枚”の写真運用は終了。
文字は端的で、静かだった。私は白茶のロールオンを手首に一滴、深呼吸してから、左手の“W.T.”を親指でそっとなでる。紙に刻んだ線が、生活のほうに移動する音がした。
昼休み、ラウンジの空気はいつもより軽い。七海が離れた席で端末を閉じ、こちらを一度だけ見て、——ネクタイを直さない。附則は、もう自然に運用されている。
桜庭は「鯖、今日はあるぞ」と言って笑い、黙って私の右側を空けてくれた。伴走の足音は、相変わらず必要最小限で、必要十分だ。
午後、庶務の山を片づける。印鑑、在庫、来客茶、紙詰まり。単純な手順を辿る指が、心拍を地面に結びつけてくれる。匿名の受信は、来ない。代わりに、経営企画の女性が一言だけ送ってくる——『“週ゼロ枚”、いいね』。
私は「了解」と返し、画面を閉じた。
終業の少し前、短いメッセージ。
『今日、黙って会う。——同じ店、別の席。十五分だけ』
約束の“会いたいの練習”の最終段階。私は「合意」と返す。
退社後、あの白いタルトの店の、奥と手前。私たちは互いを見ない席に座り、別々の水を飲む。扉の鈴、グラスの音、フォークが皿に触れる気配。
“同じ店にいることを、知っている”。それだけで、胸の輪郭がゆっくり整う。十五分。時計の針がひと目盛り進む。私は白茶を吸い、立ち上がる。彼は座ったまま、視線を動かさない。合流はしない。
店を出た歩道で、スマホが震く。
『W.T. “黙って会う”、成立?』
『W.T. 成立。静かな甘さ、今日もありました』
『Good. 紙の条項は、生活の通路へ』
会社に戻らない夜は、音がやわらかい。駅へ向かう途中で、父からも一行——『塩、がまん。ゼリー、またうまい』。私は笑い、「了解」と返す。
白湯のボトルは、相変わらず掌にちょうどいい。輪郭の道具は、増えもしないし、減りもしない。
週明け。総務の島に、薄い封筒が一つ届いていた。差出人は法務兼広報。
——“動線の安全配慮”最終版(恒久)。
末尾の附則に、小さな追記があった。
——“痛い時は外す”。
——“怖い時は怖いと言う”。
——“会いたいは、言ってよい”。
紙のざらりとした手触りが、指先の奥で温かい。私は封筒を胸ポケットに入れ、左手のリングを親指で撫でた。
その日の夕刻、役員フロアの角で彼とすれ違う。距離は変えない。右に空間、左から視線。視線だけで挨拶を交換し、通り過ぎる直前、彼が低く言う。
「——“本体”、用意できた」
呼吸が一つ、丁寧になる。「仮」の名を持つ小さな輪は、ずっと私の生活を支えてきた。けれど、今は“契約”ではなく“生活”の側から、同じ形を選び直せる。
会議室C。白い小箱。蓋を上げると、内側の刻印はそのまま“W.T.”、横に小さく点が一つ増えている。
“W.T.•”
白茶と、点。息の置き場所みたいな、小さな合意点。私は笑った。
「“本物”って、こういう微差で十分なんですね」
「うん。過去と今日をつなぐ、点」
「——合意します」
左に滑らせる。重さは変わらないのに、音が少しだけ深くなった気がした。
夜。裏ゲートまでの廊下を並んで歩く。合流はしない。ドアの風が来る手前で立ち止まり、彼が言う。
「順序は、同じのままでいこう。会社と人、同時に。——それから、君の名字は、君のもの」
「はい。私の輪郭は、私のものです」
互いに一礼して離れる。駅までの道で、七海から一行。
『“ネクタイを直さない”は継続。“温度”は、自分たちで測れるでしょ』
『了解。——附則、紙に残しておきます』
『残して、忘れないで、時々更新して』
更新。文化は紙で始まり、生活で続く。
家に着くと、玄関の灯りが穏やかだ。白湯を沸かし、ボトルに注ぐ。湯気が天井にほどける。
スマホが震えた。彼から。
『W.T. Good night』
私は指先でリングの点をなぞり、短く返す。
『W.T. “会いたい”は、明朝の予定の一行で』
送信。画面の光が落ちる。
——演出ではなく、設計。台本ではなく、通路。
“契約”が終わっても残ったのは、紙に刻んだ線ではなく、その線の上を歩く癖だった。右に空間、左から近づく。痛い時は外す。怖い時は怖いと言う。会いたいは言っていい。
輪郭は、今日も私のもの。
そして、私たちの“点”は、静かに増えていく。白茶の香りと一緒に。