副社長と仮初めの指輪
第1章「招待状は残業フォルダに」
翌朝、社内チャットの通知は止まらなかった。総務フロアの空気は、朝一番の空調よりも冷たく、目に見えない噂の粒で満ちている。机の上の白茶のロールオンの蓋を回し、私はゆっくり深呼吸した。香りは昨日と同じはずなのに、胸の奥で違う音を立てる。
スマートフォンが震える。見慣れない番号。私は通話ボタンを押した。
「……佐伯です」
『氷川ホールディングス秘書室の河野と申します。本日、佐伯さまのご出社に合わせ送迎車を——』
「だ、大丈夫です。電車で来ましたし、正面から入れます」
『かしこまりました。失礼いたします』
通話が切れる。受話口に残る細い電子音と、自分の呼吸音だけが部屋に残った。
「……婚約者、ね」
声に出すと、嘘っぽさが輪郭を失う。契約。三か月。干渉しない。その言葉を昨夜何度もなぞり、眠ったのかどうかもわからないまま朝を迎えた。指先には、彼と握手したときの感触が薄く残っている。
席に着くと、斜め前の桜庭がいつもより慎重な目つきでこちらを見た。
「おはよう、真央。……顔色、悪い?」
「大丈夫。寝不足なだけ」
「チャット、見た? 副社長が昨日、見合いパーティーで——って」
言いかけて、彼は言葉を呑む。私の視線が机の端のロールオンに落ちているのを見たからかもしれない。
「ごめん。変なこと聞いた」
「ううん。……私、巻き込まれただけだから」
昨夜、彼は言った。写真は消えない。なら物語を変える、と。あの落ち着いた声を思い出すだけで、心拍数は少し上がる。
「困ったら言って。俺に回せる仕事は回す」
「ありがとう、桜庭」
午前九時、朝礼。部長の連絡事項が淡々と読み上げられ、最後に「本日の来客情報」。経営企画と法務の打ち合わせが午後、会議室Bで——。胸はその言葉にだけ反応した。法務。契約。
隣の先輩が小声で囁く。「ねえ、昨日の写真、見た?」
私は頷きも否定もせず、未処理の申請一覧に目を落とした。世界はいつだって、私たちの事情を待ってはくれない。
昼休み、エレベーター前。画面に未読メッセージ——舞からだ。
『昨日は本当にごめん! 急に祖母が倒れて、今は落ち着いてる。代わりに行ってくれて助かった。どうだった?』
どう答えればいいのかわからない。私は「あとで話すね」とだけ返した。直後、秘書室からメール。件名「本日午後のご来社について」。会議室B、十五時。法務同席。身分証と印鑑——。
エレベーターが開く。PR本部の女性たち。七海 梢が会釈し、半歩戻る。
「佐伯さん。午後、少し時間をもらうわ。動線の確認」
「……はい」
「安心して。あなたを守るための段取りよ」
鋭いのに、鋭さをこちらに向けない言い方。それが少しだけ心強かった。
午後、会議室B。窓の外は薄曇り。テーブルの書類は白い雪の層みたいに重なっていた。法務が条項を読み上げ、私は頷く。
「相互不干渉。住居・職務への介入なし。メディア対応は広報が一括。三か月満了時は双方で声明案を事前確認」
「違約時は?」
「重大な背信があった場合に限り協議のうえ解除。あなた個人の安全に関わる事態は即時」
“あなた個人の安全”。その言葉だけが紙の上から跳ねた。手首を強く掴まれた夜、言葉を待ってもらえなかった階段。私は膝の上で手を組む。
ドアが静かに開き、空気が変わる。氷川 蓮が入ってきた。黒のスーツ、淡いグレーのネクタイ。会議室の照明は彼の影を薄くし、存在だけを濃くした。
「遅れてすまない」
視線が一瞬だけ私に触れた。背筋に熱が通る。彼は法務と短く言葉を交わし、契約書に目を落とした。
「無理はさせない。……が、今日いくつか対応が必要だ」
「対応?」
「社内掲示と、明日の通勤動線の変更。あと、今夜の会食に同行を」
「会食、ですか」
「合併先の役員が来日している。“婚約中の私生活は落ち着いている”という描写が必要だ」
私生活を描写する。誰に。どこまで。彼は続けた。
「もちろん、長居はしない。乾杯の写真が一枚あればいい」
「……わかりました」
法務が席を外し、部屋には私と彼と、秘書の河野だけが残る。河野は距離を取り、彼は声を落とした。
「昨夜は、眠れた?」
「多分、少し」
「そうか」
それきり沈黙。私は口を開いた。
「……どうして私に声をかけたんですか」
「声をかけた?」
「会場で。あなたは私を知らなかったはずなのに」
「“動ける”と思ったからだ」
「動ける?」
「あの場に立っていられる人は多くない。君は立っていた」
それは褒め言葉なのか、観察報告なのか。私は頷いた。
サインの直前、ふと脳裏に“残業フォルダ”の画面が浮かぶ。数日前、外部イベントの備品リスト作成を手伝ったとき、添付されていた招待状の画像。金の縁取り。朝のルーティンの合間に“やっておいて”と差し込まれ、私はそれを処理し、忘れた。——昨夜は、その延長線にある。
思い返せば二日前の夕方、庶務共通アドレスに「会場側からの備品確認依頼」が届いた。照明の色温度、グラスの本数、席札の紙質。私は手際よくチェックリストを作り、担当者へ返信した。添付の中に、金縁の招待状の見本が混ざっていたのを見て、「美しいな」とだけ思い、残業フォルダへ放り込んだ。あのとき、舞から「急ぎで頼みたいことがある」とメッセージが来て、返事は後で、と未読のまま。——世界は、いつも少しの“後で”で別の形になる。
昨日の出発前、私はクローゼットの前でしばらく立ち尽くした。派手でない紺のワンピースに、磨き直したローファー。母の形見の小さなパールを耳に付け、白茶の香りを一滴。鏡に映るのは、いつも通りに見える“緊張している私”だけ。参加者になりに行くのではない。ただ、代わりに顔を出すだけ——そう言い聞かせて、トートに招待状のコピーを滑り込ませた。
午後のコーヒーサーバー前では、耳に入れたくない会話が流れていた。「副社長、やっぱり別の人が本命なんじゃない?」「写真の子、誰?」——本当の名前は、まだ誰にも言えない。私が押し黙ると、紙コップの縁に落ちた影が丸く歪んだ。
そう思うと、署名の線はまっすぐに引けた。
ペン先が最後の点を打つ。河野が書類を回収し、控えを差し出す。
「本日は十八時、ホテル・レクシア“楓”にて。ドレスコードはセミフォーマル。お車は十七時十分、搬入口」
「大丈夫です」
自分の声の細さに気づく。大丈夫、は耐えることにも断ることにも使える便利な音だ。
会議室を出ると、桜庭が小走りに来た。紙袋を差し出す。
「昼、食べられてないだろ」
「ありがとう」
受け取りながら、彼の視線が私の封筒に落ちる。白い厚紙、金の縁取り。
「それ、契約関係?」
私は短く頷いた。桜庭はそれ以上踏み込まず、小さく息を吐く。
「帰り、気をつけて。送ろうか?」
「大丈夫」
「……そう」
夕方、空が早く暗くなる季節。搬入口の黒い車に乗り、窓に映る自分の強張った顔を見た。膝の上で手を組み、白茶の香りをもう一度確かめる。三か月。平気。
ホテル・レクシアのロビーは、昨夜とは違う顔をしていた。一般客のざわめきの中に、控えめな緊張の糸が一本通っている。エレベーターで河野が小声で言う。
「何かあれば、すぐ合図を」
「はい」
個室“楓”。丸テーブル。グラスの縁の水滴。私は会釈して席につき、彼を待つ。
ほどなくして、空気が一段低く滑る。氷川 蓮が入ってくる。立ち上がる私に、彼は目だけで「大丈夫」と告げた。
合併先の重役が愉快そうに言う。
「若いのに立派だ、氷川君。うらやましいよ、こんな綺麗な婚約者まで」
綺麗、という単語が空中で反響する。私は笑う角度を探し、彼の袖の布の皺を見つめて落ち着きを取り戻す。彼は穏やかに返す。
「ありがとうございます。彼女のおかげで、落ち着いて仕事ができます」
——彼女のおかげで。
胸の奥のどこかが一瞬だけ明るくなって、すぐ暗く戻る。
乾杯。カメラの光。広報が望んでいた“描写”は、この数十秒で十分に撮れたはずだ。料理が運ばれ、会話が流れ出す。私はほとんど口をつけず、水を一口。氷の音が小さく鳴る。
合間、彼が声を落とす。
「疲れたら、合図を」
「大丈夫です」
私の大丈夫に、彼は薄く眉を下げる。問い詰めるかわりに、ほんの少しだけ席を寄せた。干渉しない契約の内側で、許される最小限の距離。
一時間後、会食はお開き。個室を出て廊下の角を曲がる。人影の少ない場所で、彼が立ち止まった。
「送る」
「車がありますから」
「——ありがとう、今日」
その一言に、言葉が詰まる。彼の礼は、労いではない。対等に向けられた“ありがとう”。
「私も、ありがとうございます」
「何に?」
「……“描写”の中で、私を人として扱ってくれたことに」
彼は少し目を見開き、それから笑みとも溜息ともつかない息を吐いた。
「干渉しない、はずなんだが」
「はい」
「難しいな」
口元が勝手に緩む。角を回った先に、薄桃色のツイードのスーツが立っていた。
「……蓮」
七海 梢。彼女の視線が、私と彼の距離を一瞬で測る。背後の非常扉が開き、誰かの気配がわずかに動いた。
噂は、描写の外側で育つ。契約の夜は、もう少し複雑な色を帯びるらしい——そう理解したところで、私は背筋を伸ばした。
大丈夫。平気。三か月。
言い聞かせるたびに、胸の奥の波は少しだけ、形を変えていく。
非常扉の先から、スマートフォンを構えた影が退く気配がした。七海が一歩前に出て、私たちの前に壁を作る。私は彼の袖口の皺を掴みかけて、すぐ手を引っ込めた。干渉しない——自分で決めた線を、靴裏で確かめる。
スマートフォンが震える。見慣れない番号。私は通話ボタンを押した。
「……佐伯です」
『氷川ホールディングス秘書室の河野と申します。本日、佐伯さまのご出社に合わせ送迎車を——』
「だ、大丈夫です。電車で来ましたし、正面から入れます」
『かしこまりました。失礼いたします』
通話が切れる。受話口に残る細い電子音と、自分の呼吸音だけが部屋に残った。
「……婚約者、ね」
声に出すと、嘘っぽさが輪郭を失う。契約。三か月。干渉しない。その言葉を昨夜何度もなぞり、眠ったのかどうかもわからないまま朝を迎えた。指先には、彼と握手したときの感触が薄く残っている。
席に着くと、斜め前の桜庭がいつもより慎重な目つきでこちらを見た。
「おはよう、真央。……顔色、悪い?」
「大丈夫。寝不足なだけ」
「チャット、見た? 副社長が昨日、見合いパーティーで——って」
言いかけて、彼は言葉を呑む。私の視線が机の端のロールオンに落ちているのを見たからかもしれない。
「ごめん。変なこと聞いた」
「ううん。……私、巻き込まれただけだから」
昨夜、彼は言った。写真は消えない。なら物語を変える、と。あの落ち着いた声を思い出すだけで、心拍数は少し上がる。
「困ったら言って。俺に回せる仕事は回す」
「ありがとう、桜庭」
午前九時、朝礼。部長の連絡事項が淡々と読み上げられ、最後に「本日の来客情報」。経営企画と法務の打ち合わせが午後、会議室Bで——。胸はその言葉にだけ反応した。法務。契約。
隣の先輩が小声で囁く。「ねえ、昨日の写真、見た?」
私は頷きも否定もせず、未処理の申請一覧に目を落とした。世界はいつだって、私たちの事情を待ってはくれない。
昼休み、エレベーター前。画面に未読メッセージ——舞からだ。
『昨日は本当にごめん! 急に祖母が倒れて、今は落ち着いてる。代わりに行ってくれて助かった。どうだった?』
どう答えればいいのかわからない。私は「あとで話すね」とだけ返した。直後、秘書室からメール。件名「本日午後のご来社について」。会議室B、十五時。法務同席。身分証と印鑑——。
エレベーターが開く。PR本部の女性たち。七海 梢が会釈し、半歩戻る。
「佐伯さん。午後、少し時間をもらうわ。動線の確認」
「……はい」
「安心して。あなたを守るための段取りよ」
鋭いのに、鋭さをこちらに向けない言い方。それが少しだけ心強かった。
午後、会議室B。窓の外は薄曇り。テーブルの書類は白い雪の層みたいに重なっていた。法務が条項を読み上げ、私は頷く。
「相互不干渉。住居・職務への介入なし。メディア対応は広報が一括。三か月満了時は双方で声明案を事前確認」
「違約時は?」
「重大な背信があった場合に限り協議のうえ解除。あなた個人の安全に関わる事態は即時」
“あなた個人の安全”。その言葉だけが紙の上から跳ねた。手首を強く掴まれた夜、言葉を待ってもらえなかった階段。私は膝の上で手を組む。
ドアが静かに開き、空気が変わる。氷川 蓮が入ってきた。黒のスーツ、淡いグレーのネクタイ。会議室の照明は彼の影を薄くし、存在だけを濃くした。
「遅れてすまない」
視線が一瞬だけ私に触れた。背筋に熱が通る。彼は法務と短く言葉を交わし、契約書に目を落とした。
「無理はさせない。……が、今日いくつか対応が必要だ」
「対応?」
「社内掲示と、明日の通勤動線の変更。あと、今夜の会食に同行を」
「会食、ですか」
「合併先の役員が来日している。“婚約中の私生活は落ち着いている”という描写が必要だ」
私生活を描写する。誰に。どこまで。彼は続けた。
「もちろん、長居はしない。乾杯の写真が一枚あればいい」
「……わかりました」
法務が席を外し、部屋には私と彼と、秘書の河野だけが残る。河野は距離を取り、彼は声を落とした。
「昨夜は、眠れた?」
「多分、少し」
「そうか」
それきり沈黙。私は口を開いた。
「……どうして私に声をかけたんですか」
「声をかけた?」
「会場で。あなたは私を知らなかったはずなのに」
「“動ける”と思ったからだ」
「動ける?」
「あの場に立っていられる人は多くない。君は立っていた」
それは褒め言葉なのか、観察報告なのか。私は頷いた。
サインの直前、ふと脳裏に“残業フォルダ”の画面が浮かぶ。数日前、外部イベントの備品リスト作成を手伝ったとき、添付されていた招待状の画像。金の縁取り。朝のルーティンの合間に“やっておいて”と差し込まれ、私はそれを処理し、忘れた。——昨夜は、その延長線にある。
思い返せば二日前の夕方、庶務共通アドレスに「会場側からの備品確認依頼」が届いた。照明の色温度、グラスの本数、席札の紙質。私は手際よくチェックリストを作り、担当者へ返信した。添付の中に、金縁の招待状の見本が混ざっていたのを見て、「美しいな」とだけ思い、残業フォルダへ放り込んだ。あのとき、舞から「急ぎで頼みたいことがある」とメッセージが来て、返事は後で、と未読のまま。——世界は、いつも少しの“後で”で別の形になる。
昨日の出発前、私はクローゼットの前でしばらく立ち尽くした。派手でない紺のワンピースに、磨き直したローファー。母の形見の小さなパールを耳に付け、白茶の香りを一滴。鏡に映るのは、いつも通りに見える“緊張している私”だけ。参加者になりに行くのではない。ただ、代わりに顔を出すだけ——そう言い聞かせて、トートに招待状のコピーを滑り込ませた。
午後のコーヒーサーバー前では、耳に入れたくない会話が流れていた。「副社長、やっぱり別の人が本命なんじゃない?」「写真の子、誰?」——本当の名前は、まだ誰にも言えない。私が押し黙ると、紙コップの縁に落ちた影が丸く歪んだ。
そう思うと、署名の線はまっすぐに引けた。
ペン先が最後の点を打つ。河野が書類を回収し、控えを差し出す。
「本日は十八時、ホテル・レクシア“楓”にて。ドレスコードはセミフォーマル。お車は十七時十分、搬入口」
「大丈夫です」
自分の声の細さに気づく。大丈夫、は耐えることにも断ることにも使える便利な音だ。
会議室を出ると、桜庭が小走りに来た。紙袋を差し出す。
「昼、食べられてないだろ」
「ありがとう」
受け取りながら、彼の視線が私の封筒に落ちる。白い厚紙、金の縁取り。
「それ、契約関係?」
私は短く頷いた。桜庭はそれ以上踏み込まず、小さく息を吐く。
「帰り、気をつけて。送ろうか?」
「大丈夫」
「……そう」
夕方、空が早く暗くなる季節。搬入口の黒い車に乗り、窓に映る自分の強張った顔を見た。膝の上で手を組み、白茶の香りをもう一度確かめる。三か月。平気。
ホテル・レクシアのロビーは、昨夜とは違う顔をしていた。一般客のざわめきの中に、控えめな緊張の糸が一本通っている。エレベーターで河野が小声で言う。
「何かあれば、すぐ合図を」
「はい」
個室“楓”。丸テーブル。グラスの縁の水滴。私は会釈して席につき、彼を待つ。
ほどなくして、空気が一段低く滑る。氷川 蓮が入ってくる。立ち上がる私に、彼は目だけで「大丈夫」と告げた。
合併先の重役が愉快そうに言う。
「若いのに立派だ、氷川君。うらやましいよ、こんな綺麗な婚約者まで」
綺麗、という単語が空中で反響する。私は笑う角度を探し、彼の袖の布の皺を見つめて落ち着きを取り戻す。彼は穏やかに返す。
「ありがとうございます。彼女のおかげで、落ち着いて仕事ができます」
——彼女のおかげで。
胸の奥のどこかが一瞬だけ明るくなって、すぐ暗く戻る。
乾杯。カメラの光。広報が望んでいた“描写”は、この数十秒で十分に撮れたはずだ。料理が運ばれ、会話が流れ出す。私はほとんど口をつけず、水を一口。氷の音が小さく鳴る。
合間、彼が声を落とす。
「疲れたら、合図を」
「大丈夫です」
私の大丈夫に、彼は薄く眉を下げる。問い詰めるかわりに、ほんの少しだけ席を寄せた。干渉しない契約の内側で、許される最小限の距離。
一時間後、会食はお開き。個室を出て廊下の角を曲がる。人影の少ない場所で、彼が立ち止まった。
「送る」
「車がありますから」
「——ありがとう、今日」
その一言に、言葉が詰まる。彼の礼は、労いではない。対等に向けられた“ありがとう”。
「私も、ありがとうございます」
「何に?」
「……“描写”の中で、私を人として扱ってくれたことに」
彼は少し目を見開き、それから笑みとも溜息ともつかない息を吐いた。
「干渉しない、はずなんだが」
「はい」
「難しいな」
口元が勝手に緩む。角を回った先に、薄桃色のツイードのスーツが立っていた。
「……蓮」
七海 梢。彼女の視線が、私と彼の距離を一瞬で測る。背後の非常扉が開き、誰かの気配がわずかに動いた。
噂は、描写の外側で育つ。契約の夜は、もう少し複雑な色を帯びるらしい——そう理解したところで、私は背筋を伸ばした。
大丈夫。平気。三か月。
言い聞かせるたびに、胸の奥の波は少しだけ、形を変えていく。
非常扉の先から、スマートフォンを構えた影が退く気配がした。七海が一歩前に出て、私たちの前に壁を作る。私は彼の袖口の皺を掴みかけて、すぐ手を引っ込めた。干渉しない——自分で決めた線を、靴裏で確かめる。