副社長と仮初めの指輪

第2章「広報動線の確認」

 翌朝、社のロビーは、平日の光に磨かれていた。磨かれた石床、常緑の観葉植物、ガラス越しの街の流れ。私は胸ポケットに入れた社員証を指でなぞり、エスカレーターの手前で一度だけ足を止める。

 秘書室からの内線が来たのは、始業五分前だった。

『広報の七海です。十時から広報動線の確認を行います。佐伯さん、参加できる?』

「はい。場所は——」

『二階の会議室D。副社長も来る。固い場じゃないから、安心して』

 固い場じゃない、と言われて安心できたことは、人生で一度もない。けれど私は頷き、PCを閉じ、メモ帳とペンだけを持った。白茶の香りをひと息。干渉しない約束の内側で、私は今日も“自分の仕事”を続ける。

 会議室Dは窓が大きく、光が真っ直ぐ落ちている。七海はすでに来ていて、タブレットで何かの地図を拡大していた。

「おはよう、佐伯さん。座って。まずは“動線”から説明するね」

「動線……ですか」

「うん。君が会社に入るところから、昼休み、会議室の移動、そして退社まで。今日は“誰に、どれだけ見せるか”の練習。演出って言葉は好きじゃないけど、守るためには必要なこと」

 七海の指が、フロアマップの上を滑る。エントランス、受付、エレベーター、フロアの角にあるラウンジ。どこで立ち止まり、どの角度で挨拶し、どの距離感で歩くのか——驚くほど細かく決められていた。

「副社長との距離は、このくらい」

 七海が私の前に立ち、二歩分の間を残す。指先一つぶん近づけると、彼女は首を横に振った。

「近い。これは“親密”の距離。今日は“落ち着いた婚約者”の距離で」

「……はい」

「手は組んで。指輪は?」

「まだ、です」

「急ぐわ。記者が騒がないよう、社内向けの写真を先に流す。サイズは——」

 ドアが開いて、空気が少し重くなった。氷川 蓮が入ってくる。スーツは濃紺、ネクタイは鈍い銀色。彼の視線は一瞬だけ私に留まり、それから七海へ移った。

「始めよう」

「はい。まずは入館から。——蓮、佐伯さんの“歩幅”に合わせて」

「わかっている」

 実演は、思っていた以上に身体を使った。エントランスの自動ドアを想像しながら、私たちは並んで歩く。七海は目を細め、微妙な角度の差を指摘する。

「佐伯さん、顎を上げすぎないで。目線は二メートル先。隣にいるのは“壁”じゃなくて“人”」

 壁。私はわずかに肩の力を抜いた。彼は黙って歩調を合わせる。時々、私より半歩先に出て、扉を開けるふりをする。そのたびに、私の腕の皮膚だけが、遅れて情報を受け取る。

「次は社内カフェ。昼休みに一度だけ、二人で並ぶ。長居はしない。写真一枚ぶんの時間だけ」

「——写真、一枚」

「そう。君の“生活”を壊さないために、必要最小限」

 必要最小限。契約の継ぎ目に貼られた言葉が、今日も機能しているのを感じる。

 休憩を挟んだ。紙カップに注がれた薄いコーヒーの匂いが、会議室の空気に重なる。沈黙が落ちると、自分の鼓動だけがやけに大きく思えた。

「……指輪のサイズ、今、測ってもいい?」

 七海がメジャーを取り出す。私は躊躇して、右手を出しかけてから、左手に持ち替えた。七海が一瞬だけ視線を上げる。

「右手は、何か嫌?」

「癖で。昔、右を掴まれてから、ちょっと」

 ふっと、七海の目の色が変わった。次の瞬間にはいつもの仕事の顔に戻っている。

「じゃあ左で。——蓮、見て」

 彼は近づかない。テーブル越しの距離を保ったまま、穏やかに言う。

「サイズは後で僕からも確認する。無理はしないでいい」

「大丈夫です」

「大丈夫、は便利な言葉だね」

 七海が軽く笑った。その笑い声は薄く、でもあたたかかった。

 昼前、社内カフェへ実際に向かった。フロアを横切る間、視線がいくつも触れて、剥がれていく。カウンターには期間限定のベリータルト。私は水だけを頼み、彼はブラックコーヒーを受け取る。

「甘いものは?」

「今日は……」

「じゃあ、今度」

 今度。その言葉は未来形なのに、契約の三か月という枠に押し込められて、不思議な重みを持つ。

 窓際の高いテーブルで、七海が小さく指で合図を送る。私たちは並んで立ち、カップを軽く近づけた。パシャ、という電子音。社内SNSにだけ、限定公開で写真が上がる手筈だ。

「——五秒」

 七海の声。私は笑いすぎない笑みを硬質に保つ。並んだ二つの影が、テーブルに重なって揺れる。五秒はすぐに終わった。

「ありがとう。今日はこれで十分」

 七海が端末を操作する横で、誰かの囁きが耳に触れた。「本当に婚約なの?」「PRの七海さんの方が似合わない?」——噂はいつだって、まるで自分の声みたいな顔をして近づいてくる。

 席を離れようとしたとき、斜め後ろから名前を呼ばれた。

「真央」

 桜庭だった。彼の手には資料の入ったバインダー。目が私と彼の距離を測り、ほんの一瞬だけ曇る。

「昼、会議資料、預かった。……コーヒー、冷めるよ」

「あ、ありがとう。今、戻る」

「大丈夫?」

「大丈夫」

 “二度目の大丈夫”。桜庭は小さく頷き、足早に去っていく。置いていかれた空気の温度が、少しだけ下がった。

 午後、社内掲示板に“ご報告”が出た。簡潔な文面。「氷川蓮(取締役副社長)は、以前よりご縁のあった一般の方と婚約いたしました。プライバシー保護にご理解とご協力を——」。私の名前はない。そこだけが救いで、そこだけが苦い。

 定時すこし前、七海からチャット。

『今日の写真、社内限定で出した。反応は穏やか。——ただ、匿名掲示板に“見たよ、二人でカフェ”って書き込みが出てる。すぐ消すけど、気にしないで』

『ありがとうございます』

『ねえ、佐伯さん』

『はい』

『あなたが怖いときは、怖いって言っていい。演出は、あなたが壊れたら終わりだから』

 画面の文字は軽い。けれど支える力は確かだ。私は短く礼を打った。

 その夜。帰りのエレベーター。人が少ない時間帯で、私と彼の二人きりだった。鏡張りの壁に、並んだ影が二本。静かな箱の中では、心臓の音まで会話に聞こえそうで、私は白茶の香りに意識を逃がした。

「——今日、ありがとう」

 先に口を開いたのは、彼だった。

「こちらこそ。わかりやすく守ってもらってます」

「守れているだろうか」

「すくなくとも、私の輪郭は、まだ私のものです」

「よかった」

 鏡の向こうで、彼の表情がわずかにほどける。その安堵につられて、私も肩の力が抜けた。

「指輪は、今週中に」

「サイズは、今日、七海さんが」

「うん。だけど、最終的には君が“心地いい”と思える形にする。実用性でも、見た目でも」

「……仮初め、なのに」

「仮初めだから。重さを間違えると、三か月が長くなる」

 エレベーターが一階で止まる。ドアが開いて、夜の空調の風が流れ込んだ。人の気配が増える前に、彼は一歩、私より先に出て、さりげなく通路を作る。

「送る」

「大丈夫です」

 彼は笑った。「その言葉、今日だけで何回目だろう」

「四回、くらい……」

「正解」

 冗談めいたやり取りに、ほんの少し救われる。出口手前で、七海が待っていた。淡い口紅、淡い笑み。

「お疲れ。車は手配済み。——蓮、明日の会議、資料の差し替えが入った。夜、共有する」

「ああ」

 七海が私に向き直る。

「今日の君は、よかった。立ち方も、笑い方も。ねえ、一つだけ」

「はい」

「“演出”の外の時間に、泣かないで。痕が残るから」

 私は一瞬だけ言葉を失い、それから小さく頷いた。七海はそれ以上踏み込まず、車のドアを開けた。

 車窓の向こう、街の灯りが擦りガラスみたいに滲む。スマホが震えた。舞からだ。

『ニュース見た。びっくりして、でも、どこにも名前が出てなくて。真央、大丈夫?』

『大丈夫。明日、話すね』

 送信して、画面を伏せる。仮初めの指輪はまだない。けれど、輪郭だけは、今日もここにある。干渉しない約束は、守られている。——守られているのに、守られた内側が、少しずつあたたかくなるのは、どうしてだろう。

 夜風が、少しだけ白茶の香りを攫っていった。私はシートベルトの金具を指で確かめ、目を閉じる。明日は、どの距離で立つのだろう。どの角度で笑うのだろう。どの言葉を、飲み込むのだろう。

 仮初めの指輪が届くまで、私の手は空だ。だからこそ、今日の距離の記憶が、まっすぐ掌に残る。

 ——干渉しない。いちばん破りたくなる条項を、私は何度でも胸の内側で唱えた。

 帰宅して灯りを点けると、通知がまた光った。社内SNSには拍手と「おめでとう」が並ぶ。中にひとつだけ、無言の“目”のスタンプ。誰のものかは、わからない。

 すぐに、差出人不明の短いメッセージが届いた。

『あなたは誰? 本当に“彼”の婚約者?』

 私は十秒だけ指先を宙で止め、下書きを消す。七海の言葉がよぎる——“演出の外で泣かないで”。泣かない。代わりに白茶のロールオンを手首に一滴。脈が静かに返事をする。

 封筒から今日の控えを取り出した。厚い紙の乾いた手触り。三か月の約束は、文字にすると驚くほど薄い。けれど、この薄さに寄りかかって立つ術を、私は今日ひとつ覚えた。

 窓の外で、終電のアナウンスが風に攫われていく。明日は指輪の相談、明後日は部署横断の朝礼、週末には家族への手順の確認——スケジュールの欄外に、小さく書き足す。

 “甘いもの、今度。”

 未来形の四文字は、仮初めの手の中で、思いがけず温かかった。
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