副社長と仮初めの指輪

第3章「仮の指輪の重さ」

 朝の空気は薄く、書類の白がやけに冴えて見えた。総務フロアの端に、小さな白い箱が置かれている。差出人は社外——ジュエリーサロンの名前。付箋には秘書室の河野の字で「本日、試着用」とある。

 指で箱の角をなぞると、紙の繊維がさらりと返事をした。仮初めの指輪。まだ私のものではないのに、もう私の手の話を始めてしまう。

 十時、会議室D。昨日と同じ真っ直ぐな光。七海がタブレットを立て、カメラの角度を確かめている。机の上には測り用のリングゲージと、白い箱が三つ。

「おはよう、佐伯さん。今日は“見せるためじゃなく、耐えられるため”の確認ね」

「……耐えられる、ため」

「そう。三か月を、ね」

 ドアが開く。彼が入ってくる。濃紺のスーツ、今日のネクタイは淡い藍。視線が私に触れ、すぐ七海へ移る。

「始めよう」

 七海がリングゲージを差し出す。私は一拍置いて、左手を差し出した。右はまだ、時々、過去の記憶が引っかかる。

「遠慮しなくていいわ。痛ければすぐ言って」

「大丈夫です」

 金属の輪が指をすべる。少しきゅうくつ、少し大きい、ぴたり。その瞬間、彼の肩の力が、ほんのわずか抜けたように見えた。

「十二号……いや、冬場は細くなるから、半号落とすか」

「蓮、あなたの趣味は?」

「実用性。仕事の邪魔にならないこと。——君は?」

 問われて、答えが喉で迷子になる。アクセサリーに“趣味”なんて、これまで自分に対して考えたことがなかった。

「傷が目立たない方が……助かります。総務は、段ボールに手を入れることも多いので」

 七海が笑う。「わかる。じゃあ、鏡面じゃなくてマット寄り。プラチナで、幅は細め」

 白い箱から仮のリングが現れる。光を吸うような静かな銀色。私はゆっくりと人差し指で触れ、薬指へと滑らせた。体温が金属に移り、金属が体温を返す。ほんの少し重い。けれど、肩の重さとは違って、指の重さはどこか心地よい。

「どう?」

「……思ったより、軽いです」

「よかった」

 彼の声は、短いが、柔らかかった。

「刻印は?」

 七海の問いに、私は息を呑む。内側に何かを閉じ込める。たとえそれが三か月で終わる言葉でも。

「日付、名前、イニシャル、なんでも。——何も入れなくてもいい」

「……白茶、って入れられますか?」

 七海が小さく目を丸くした。彼が私を見る。

「香りの、白茶?」

「はい。母の……ずっとつけてる香りで、私の輪郭を、確かめるための」

「いいと思う。漢字か、英語か」

「英語で。WHITE TEA、は、ちょっと主張が強いから……“W.T.”だけ」

「了解。——蓮?」

「ああ。僕の方は何も要らない。彼女がつけていられるものを」

 七海が視線だけで私に微笑み、「いい選択」とだけ言った。

 試着を終え、箱を閉じる。ふと、窓の外で光が閃いた。ビルの反対側の屋上に、長いレンズが一瞬だけ見えた気がする。七海が素早くブラインドを下ろす。

「外の視線は気にしないで。こっちはこっちのやり方で守る」

「はい」

 会議室を出ると、廊下の角で桜庭と鉢合わせた。彼の視線が私の左手の銀に触れ、すぐ離れる。

「……サイズ、合った?」

「うん。大丈夫。マットで、細め」

「似合うと思う」

 短く言って、桜庭はバインダーを持ち直した。言い足りない言葉が彼の喉に残っているのが、なぜだか分かる。私も、言わないことを選ぶ。

 昼休み前、社内掲示板に“リング選定のお知らせ”が社外広報向けのテンプレとして下書きされた。公開にはしない。けれど、どこかで“準備は整っている”と誰かに見せるための行間があった。

 昼の社内カフェ。昨日と同じ窓際。今日の彼のカップはラテ、私は水。七海が端に座り、端末を操作しながら、視線は私たちから外さない。

「昨日より、息が浅い。大丈夫?」

「大丈夫です」

「三回目の“大丈夫”。今日の分は、あと何回?」

 彼が冗談めかして言い、私は少し笑う。笑いすぎないよう、角度を気にしながら。

「午後、取締役の事前ブリーフィングがある。俺はそのまま役員フロアへ。——佐伯さんは?」

「午後は来客受付と文書の押印、夕方に備品の検品。それで終わりです」

「終わったら、少しだけ時間をもらえるかな」

 七海が顔を上げる。「広報の動線に影響しない範囲で。場所は——」

「総務フロア端の会議室Cなら、人が少ない」

「了解。十七時半、十分だけ」

 十分。短いはずの単位が、今日に限って、やけに長く感じられる。

 午後、作業に没頭していると、内線が灯った。表示は“匿名”。一瞬、昨日の無言メッセージが背中を撫でる。受話器を取るのをためらっていると、隣の先輩が「あ、うちの代表です」と笑ってボタンを押した。外線の代理着信だった。小さく安堵して、自分の臆病さを少しだけ笑った。

 十七時二十五分。会議室Cのドアの前で深呼吸をひとつ。白茶の香りを確かめる。入ると、彼はもういた。室内の灯りは落とされ、窓の向こうの空の色だけが明るい。

「遅れてない?」

「ぴったり」

 彼は小さな紙袋を差し出した。中には白い箱。さっきの試着用とは違う、少し柔らかな紙質。

「完品ではない。モックだ。今日から“写真に写っていい”状態にしておく」

「ありがとうございます」

 箱を開けると、モックのリングが眠っていた。さっき合わせたサイズと同じ、細いマット。内側は空白だ。刻印は、後日。

「付けてもいい?」

「うん」

 私はゆっくりと、左薬指にそれを滑らせた。音はしないのに、耳の内側で何かが鳴った気がした。体温が金属へ移り、金属が形になって戻ってくる。

「……重さ、どう?」

「大丈夫。重いのに、軽いです」

「矛盾している」

「はい。私もそう思います」

 二人で小さく笑った。短い部屋の空気が、わずかに丸くなる。

「さっき、廊下で聞こえた。『PRの七海さんの方が似合うんじゃない?』って」

 唐突な彼の言葉に、私は目を瞬いた。彼は窓の外を見たまま、続ける。

「噂の形を、先に伝えておく。聞こえるより、届くより前に。——嫌な気持ちになったら、怒っていい」

「……怒るの、下手です」

「練習しよう。十分だけ」

 彼の冗談は、時々、私の弱いところに直接触れる。触れすぎないように指の腹で、でも確かに触れるみたいに。

「七海さんは、仕事ができる人です。守ってくれている」

「そうだね。昔から、僕の穴の空きそうなところを、先に塞いでくれる」

 “昔から”。胸のどこかが、床の上で小さく鳴った。干渉しない約束の内側で、私はその音をやわらかい足で踏み消す。

「……十分が、終わりそうです」

「そうだね」

 彼は時計を見て、小さく頷いた。

「明日、指輪の本発注。週末には仮の刻印が入る。——“W.T.”でいい?」

「はい」

「君の輪郭が、君のままでいられるように」

 名前ではなく、輪郭。彼の言葉の選び方が、不意打ちみたいに胸に残る。私は頷き、箱の蓋を閉じた。

 会議室を出ると、曲がり角の向こうに人影。薄桃色のツイード。七海が腕を組み、壁にもたれていた。

「時間、ぴったり。——佐伯さん、似合う」

 視線は私の左手に落ち、すぐに彼へ戻る。仕事の顔だ。

「蓮、役員フロアから差し替えの連絡。『資料8−Bの注釈を……』」

「わかった。すぐ上がる」

 七海がすっと彼のネクタイの結び目に指を伸ばし、わずかに位置を整える。業務的な仕草。けれど、私の胸の奥では、別の意味が一瞬だけ顔を出す。

「ありがとう、七海」

「職務です」

 目の前で交わされる、長年の手際。私は左手の輪っかを親指でそっと撫でた。マットな質感が、変なほど落ち着く。

「佐伯さん」

 七海がふいにこちらを見る。視線は冷たくない。

「“見せ方”と“守り方”は両立する。困ったら、必ず連絡を。私にでも、河野でも」

「はい。……ありがとうございます」

 七海の表情がほんの少し和らぐ。彼女は踵を返し、軽い足音で去っていった。残された空気に、彼の低い声だけが落ちる。

「——怒る練習、また今度」

「はい」

 夕暮れの総務フロアは、書類の白が柔らかく見えた。デスクに戻ると、机上のモニタに通知。社内SNSに写真が一枚、限定公開で上がっている。窓際、ラテと水。昨日のそれとは違い、今日の私の左手に、細い光がある。コメント欄には簡単な祝意と、いくつかの“目”のスタンプ。何も言わない視線は、ときどき言葉より大きい。

 スマホが震えた。舞からメッセージ。

『指輪! 似合う! 週末、お茶しよう。全部、聞かせて』

 “全部”。何からどこまでが全部なのか、まだ自分でもわからない。それでも「うん」と返した。

 定時のチャイムが鳴る。帰り支度を整え、白茶のロールオンを手首に一滴。香りは、私の輪郭を今日も正しく囲ってくれる。

 エレベーターの前で、桜庭が待っていた。

「送るよ」

「大丈夫」

「……わかった。じゃあ、駅まで一緒に歩く」

「え?」

「俺が歩きたいから。伴走、ってやつ」

 断り方を失って、私は笑った。扉が開く。二人で乗り込むと、鏡に映る影が三本に増えた。左手のリングが、蛍光灯の白を淡く返す。

「似合う」

 桜庭がぽつりと言い、すぐ視線を外した。

「……ありがと」

「うん」

 夜の風は少し冷たい。駅までの道、私たちは会社や季節の話をした。誰の名前も出さない会話。けれど、沈黙が怖くない沈黙だった。

 改札前で別れ、私は振り返らない。白茶の香りが、右肩から左肩へと移っていく。左手の小さな重さを確かめながら、私は階段を降りた。

 ——仮の指輪は、仮の物語を支えるための道具。なのに、物語の方が指輪を支え始めている。そんな気がした。

 家に着いて灯りを点ける。机に箱を置き、指輪を外す。内側は空白。これから入る“W.T.”の二文字を想像して、私は小さく笑った。

 スマホが一度だけ震える。差出人不明のメールが、短く点滅している。

『見ていたよ。指輪、似合わない』

 指先が一瞬だけ固くなり、すぐ緩む。削除。息を整え、白茶の香りを脈に重ねる。噂も、悪意も、目も、きっとこれから増える。干渉しない約束の内側に立ち続けるために、私にはまだ練習が要る。

 照明を落とす。暗がりで、左手が小さく光った。仮の重さは、眠りに落ちるまでのあいだ、奇妙に優しかった。
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