副社長と仮初めの指輪
第4章「PRの笑み、同僚のまなざし」
朝のエントランスに、祝花が一基届いていた。白い百合と薄桃のバラ。差出人は取引先の社名、カードには簡潔な一文——「ご婚約おめでとうございます 氷川副社長様 ならびにご令嬢」。
“ご令嬢”の文字に、喉がひやりとする。私は総務の印鑑を押し、花を受付の脇に移した。香りが空調に乗って広がる。白茶とは違う、甘く濃い匂い。少しだけ、胸が息苦しい。
デスクに戻ると、桜庭が目で合図を送ってきた。
「朝から華やかだな」
「うん。総務、対応で大わらわ」
「カードの“ご令嬢”って、誰なんだろうな」
冗談めかして言って、すぐに視線を外す。彼のそういうところが、救いにも、罪にも感じられる。
十時、広報から内線。七海が要件を淡々と告げる。
『昼、ラウンジで写真を一枚。新入社員の職場紹介の記事に“偶然写り込み”の体裁で』
「はい。距離は昨日と同じで?」
『三歩手前。今日は“落ち着いている二人”を少し遠くから』
「わかりました」
受話器を置いた途端、社内チャットがざわめいた。「祝花きれい」「誰が“ご令嬢”なの」「PRの七海さんじゃない?」——文字の泡が、画面の隅で弾けては消える。
正午すぎ、ラウンジ。窓際の観葉植物の影が、床にレース模様を落としている。私は水、彼はブラック。七海は少し離れた席で端末を構え、広角で一枚だけ切り取った。
「ありがとう、OK」
短い合図で、私たちはすぐ席を離れた。すれ違いざま、見知らぬ若手が笑いかける。
「おめでとうございます!」
私は会釈し、彼が「ありがとう」と返す。数秒のやり取りが、社内の空気の温度をほんのわずか変えた気がした。
午後、備品の検品をしていると、桜庭が紙箱を抱えて来た。
「総務印の新しいスタンプ、入ったよ」
「ありがとう。——重い?」
「大丈夫。俺、力持ちだから」
冗談の温度がやさしくて、私は笑った。彼が箱を机に置くと、ふっと私の左手に視線が落ちる。細いリングが蛍光灯の白を小さく返した。
「……本物は、まだ?」
「うん。刻印、これから」
「刻印、か。何を入れるの?」
「秘密」
「そっか。——今度、昼、外の定食屋、行かない? ほら、同じ島の子たちと」
“同じ島の子たち”。配慮の形をした輪郭線。私は頷いた。
「行く」
「よかった。じゃ、段取りする」
彼が去ったあと、七海からチャットが飛ぶ。
『夕方、会議室Aで広報レクチャ。社外の問い合わせ対応、念のため押さえておこう』
『了解しました』
会議室Aは、壁一面がガラスだ。七海はスクリーンに“想定質問と回答例”を映し、口角だけで笑う。
「“出会いのきっかけ”は聞かれても答えない。“日常は変わりましたか”には“仕事優先で変わりません”で統一。——それから、これはあなた個人に関わること」
「はい」
「匿名メッセージ。届いてるでしょ」
心臓が、音を立てた。
「昨夜、一通。『指輪、似合わない』って」
「削除で正解。返信は絶対にしない。全部、こちらでログを集める」
七海の瞳は冷静で、やさしかった。私は小さく礼を言う。
「ありがとう、七海さん」
「仕事だから。——でも、仕事以外でも、あなたの味方でいたいと、私は思ってる」
予想よりも少し近い距離で言われ、言葉が喉の奥で丸まった。七海は視線を外し、スクリーンを切る。
「最後にひとつ。噂を先回りしよう。……“私と蓮”」
私は息を止める。
「私たちは長い。昔からの同僚で、現場で何度も肩を並べた。プロジェクトの修羅場も、たくさん。だから、結び目を直す角度も、彼の歩幅も、知っている」
「——はい」
「それは“武器”だけど、“誤解の種”にもなる。あなたが嫌だと思う瞬間がきっと来る。来たら、私に言って」
「……言えるかな」
「言いなよ。あなたは、立っていられる人でしょ」
プロローグの夜に、彼が言った言葉と同じ響きが、七海の口から零れた。私はうなずいた。
レクチャを終えて出ると、廊下の角で彼と鉢合わせた。七海が自然な手付きで彼の袖の埃を払う。ほんの一秒、私は視線の置き場を失った。
「会議、終わった?」
「はい。広報対応の練習を」
「助かる。——夜、少し長引く。広報経由で送迎を調整する」
「私は大丈夫です。電車で」
「……そう。じゃあ、駅まで」
「いえ、本当に」
干渉しない約束が、私の舌の上で滑る。彼はそれ以上言わず、七海は何も挟まず、ただ頷いた。
夕方、総務フロア。定時の五分前に、画面の隅が点滅する。“社内フォトログ:役員フロア”。自動でアップされる廊下カメラのスチル。タイムスタンプは十九時二十二分。そこに映っている二人の後ろ姿——濃紺のスーツと、薄桃色のジャケット。肩の高さが近い。ネクタイの結び目に伸びる指。
業務的な一瞬だと、頭ではわかる。けれど、胸の奥は別の言語で反応した。
画質の荒い写真に、すぐさま“目”のスタンプが並ぶ。コメントはない。スタンプは言葉より安全で、残酷だ。
席を立つと、桜庭が声を掛けた。
「駅まで、行こう」
「今日は、平気。ありがと」
「そっか」
彼の“そっか”は短く、優しかった。エレベーターのドアが閉まる、その前に、私は意地みたいに背筋を伸ばした。
地下鉄のホームで、スマホが震える。七海からだ。
『さっきのフォトログ、削除申請出した。反映まで時間がかかる。気にしないで』
『ありがとうございます』
電車の窓に映る自分の顔は、少しだけ疲れていた。家の鍵を回す音が、いつもより乾いて聞こえる。白茶のロールオンを手首に一滴。香りの輪郭に自分を合わせる。
シャワーを終えた頃、短いメッセージが届いた。
『今日もありがとう。帰れた?』
彼だった。ほんの一行。それが、干渉しない約束の内側で許された最大値に思えた。
『無事に。お疲れさまです』
送信。打ちかけて消した文は、画面のどこにも残らない。
数分後、また一行。
『刻印、W.T.で進める。——好きな香りも、守るべき生活の一部だと思うから』
胸の奥が、少しだけ明るくなる。返事を考えながら、私は指輪を外した。内側は、まだ空白。小さな銀が、洗面台の灯りをひとつだけ跳ね返す。
『ありがとうございます。大切にします』
送信。スタンプは使わない。言葉の体温だけで、今日は十分だ。
電気を落とし、ベッドに横になる。瞼の裏に、昼のラウンジが浮かぶ。広角で切り取られた距離。あの距離は安全だ。けれど、何も届かない距離でもある。
——干渉しない。
唱えるほどに、約束の縁がきしむ音がする。ほんとうに守られているのは、私の生活なのか、彼の仕事なのか、私にもわからない。
翌朝。社内掲示板に、新入社員の紹介記事が公開された。明るい笑顔、デスクの全景、ラウンジのスナップ。隅に小さく、二人で並んだ影。コメント欄は穏やかで、「いい職場だね」「ラウンジおしゃれ」。私たちに触れる言葉はない。
その無言が、いちばん大きい。
昼休み、定食屋。揚げたての音、味噌汁の湯気、窓の外の薄い雲。島のメンバーが数人で笑う。桜庭がさりげなく一番端の席を譲ってくれる。
「真央、魚にする?」
「うん。鯖、食べたい」
「じゃ、鯖二つ」
注文を告げる声は明るくて、私は少し救われた。テーブルに料理が並ぶ。桜庭が小声で問う。
「匿名、来てる?」
「昨日、少し」
「七海さんは?」
「全部、拾ってくれてる」
「そっか。……何かあったら、俺にも言って」
“俺にも”。その言葉の柔らかさに、私はうなずいた。
午後、戻る途中、正面玄関で足が止まる。昨朝の祝花の花弁が、もう少しだけ開いていた。香りは濃く、甘い。私は白茶のキャップを回し、鼻先でかすかに吸う。
——輪郭、輪郭。
自分に言い聞かせ、踵を返す。
その日の終わり、七海が短く告げた。
「明日、外部の取材が一本、入る。社内報レベル。写真は控えめ、質問は事前提出。——“二人の距離”を、今より半歩だけ縮める」
「半歩」
「うん。安全な半歩。あなたの“呼吸”が初めて写る距離」
呼吸が写る。言葉だけで胸が熱くなる自分に、私は少し驚いた。
帰りのエレベーター。鏡に映る自分の顔は、昨日より少しだけ、輪郭がはっきりしていた。左手のリングが、小さく光る。仮初めの指輪は、約束の境界線を確かめるための道具だ。
それでも——と私は思う。
境界線そのものが、いつか私のほうへ一歩、動く日が来るのかもしれない、と。
“ご令嬢”の文字に、喉がひやりとする。私は総務の印鑑を押し、花を受付の脇に移した。香りが空調に乗って広がる。白茶とは違う、甘く濃い匂い。少しだけ、胸が息苦しい。
デスクに戻ると、桜庭が目で合図を送ってきた。
「朝から華やかだな」
「うん。総務、対応で大わらわ」
「カードの“ご令嬢”って、誰なんだろうな」
冗談めかして言って、すぐに視線を外す。彼のそういうところが、救いにも、罪にも感じられる。
十時、広報から内線。七海が要件を淡々と告げる。
『昼、ラウンジで写真を一枚。新入社員の職場紹介の記事に“偶然写り込み”の体裁で』
「はい。距離は昨日と同じで?」
『三歩手前。今日は“落ち着いている二人”を少し遠くから』
「わかりました」
受話器を置いた途端、社内チャットがざわめいた。「祝花きれい」「誰が“ご令嬢”なの」「PRの七海さんじゃない?」——文字の泡が、画面の隅で弾けては消える。
正午すぎ、ラウンジ。窓際の観葉植物の影が、床にレース模様を落としている。私は水、彼はブラック。七海は少し離れた席で端末を構え、広角で一枚だけ切り取った。
「ありがとう、OK」
短い合図で、私たちはすぐ席を離れた。すれ違いざま、見知らぬ若手が笑いかける。
「おめでとうございます!」
私は会釈し、彼が「ありがとう」と返す。数秒のやり取りが、社内の空気の温度をほんのわずか変えた気がした。
午後、備品の検品をしていると、桜庭が紙箱を抱えて来た。
「総務印の新しいスタンプ、入ったよ」
「ありがとう。——重い?」
「大丈夫。俺、力持ちだから」
冗談の温度がやさしくて、私は笑った。彼が箱を机に置くと、ふっと私の左手に視線が落ちる。細いリングが蛍光灯の白を小さく返した。
「……本物は、まだ?」
「うん。刻印、これから」
「刻印、か。何を入れるの?」
「秘密」
「そっか。——今度、昼、外の定食屋、行かない? ほら、同じ島の子たちと」
“同じ島の子たち”。配慮の形をした輪郭線。私は頷いた。
「行く」
「よかった。じゃ、段取りする」
彼が去ったあと、七海からチャットが飛ぶ。
『夕方、会議室Aで広報レクチャ。社外の問い合わせ対応、念のため押さえておこう』
『了解しました』
会議室Aは、壁一面がガラスだ。七海はスクリーンに“想定質問と回答例”を映し、口角だけで笑う。
「“出会いのきっかけ”は聞かれても答えない。“日常は変わりましたか”には“仕事優先で変わりません”で統一。——それから、これはあなた個人に関わること」
「はい」
「匿名メッセージ。届いてるでしょ」
心臓が、音を立てた。
「昨夜、一通。『指輪、似合わない』って」
「削除で正解。返信は絶対にしない。全部、こちらでログを集める」
七海の瞳は冷静で、やさしかった。私は小さく礼を言う。
「ありがとう、七海さん」
「仕事だから。——でも、仕事以外でも、あなたの味方でいたいと、私は思ってる」
予想よりも少し近い距離で言われ、言葉が喉の奥で丸まった。七海は視線を外し、スクリーンを切る。
「最後にひとつ。噂を先回りしよう。……“私と蓮”」
私は息を止める。
「私たちは長い。昔からの同僚で、現場で何度も肩を並べた。プロジェクトの修羅場も、たくさん。だから、結び目を直す角度も、彼の歩幅も、知っている」
「——はい」
「それは“武器”だけど、“誤解の種”にもなる。あなたが嫌だと思う瞬間がきっと来る。来たら、私に言って」
「……言えるかな」
「言いなよ。あなたは、立っていられる人でしょ」
プロローグの夜に、彼が言った言葉と同じ響きが、七海の口から零れた。私はうなずいた。
レクチャを終えて出ると、廊下の角で彼と鉢合わせた。七海が自然な手付きで彼の袖の埃を払う。ほんの一秒、私は視線の置き場を失った。
「会議、終わった?」
「はい。広報対応の練習を」
「助かる。——夜、少し長引く。広報経由で送迎を調整する」
「私は大丈夫です。電車で」
「……そう。じゃあ、駅まで」
「いえ、本当に」
干渉しない約束が、私の舌の上で滑る。彼はそれ以上言わず、七海は何も挟まず、ただ頷いた。
夕方、総務フロア。定時の五分前に、画面の隅が点滅する。“社内フォトログ:役員フロア”。自動でアップされる廊下カメラのスチル。タイムスタンプは十九時二十二分。そこに映っている二人の後ろ姿——濃紺のスーツと、薄桃色のジャケット。肩の高さが近い。ネクタイの結び目に伸びる指。
業務的な一瞬だと、頭ではわかる。けれど、胸の奥は別の言語で反応した。
画質の荒い写真に、すぐさま“目”のスタンプが並ぶ。コメントはない。スタンプは言葉より安全で、残酷だ。
席を立つと、桜庭が声を掛けた。
「駅まで、行こう」
「今日は、平気。ありがと」
「そっか」
彼の“そっか”は短く、優しかった。エレベーターのドアが閉まる、その前に、私は意地みたいに背筋を伸ばした。
地下鉄のホームで、スマホが震える。七海からだ。
『さっきのフォトログ、削除申請出した。反映まで時間がかかる。気にしないで』
『ありがとうございます』
電車の窓に映る自分の顔は、少しだけ疲れていた。家の鍵を回す音が、いつもより乾いて聞こえる。白茶のロールオンを手首に一滴。香りの輪郭に自分を合わせる。
シャワーを終えた頃、短いメッセージが届いた。
『今日もありがとう。帰れた?』
彼だった。ほんの一行。それが、干渉しない約束の内側で許された最大値に思えた。
『無事に。お疲れさまです』
送信。打ちかけて消した文は、画面のどこにも残らない。
数分後、また一行。
『刻印、W.T.で進める。——好きな香りも、守るべき生活の一部だと思うから』
胸の奥が、少しだけ明るくなる。返事を考えながら、私は指輪を外した。内側は、まだ空白。小さな銀が、洗面台の灯りをひとつだけ跳ね返す。
『ありがとうございます。大切にします』
送信。スタンプは使わない。言葉の体温だけで、今日は十分だ。
電気を落とし、ベッドに横になる。瞼の裏に、昼のラウンジが浮かぶ。広角で切り取られた距離。あの距離は安全だ。けれど、何も届かない距離でもある。
——干渉しない。
唱えるほどに、約束の縁がきしむ音がする。ほんとうに守られているのは、私の生活なのか、彼の仕事なのか、私にもわからない。
翌朝。社内掲示板に、新入社員の紹介記事が公開された。明るい笑顔、デスクの全景、ラウンジのスナップ。隅に小さく、二人で並んだ影。コメント欄は穏やかで、「いい職場だね」「ラウンジおしゃれ」。私たちに触れる言葉はない。
その無言が、いちばん大きい。
昼休み、定食屋。揚げたての音、味噌汁の湯気、窓の外の薄い雲。島のメンバーが数人で笑う。桜庭がさりげなく一番端の席を譲ってくれる。
「真央、魚にする?」
「うん。鯖、食べたい」
「じゃ、鯖二つ」
注文を告げる声は明るくて、私は少し救われた。テーブルに料理が並ぶ。桜庭が小声で問う。
「匿名、来てる?」
「昨日、少し」
「七海さんは?」
「全部、拾ってくれてる」
「そっか。……何かあったら、俺にも言って」
“俺にも”。その言葉の柔らかさに、私はうなずいた。
午後、戻る途中、正面玄関で足が止まる。昨朝の祝花の花弁が、もう少しだけ開いていた。香りは濃く、甘い。私は白茶のキャップを回し、鼻先でかすかに吸う。
——輪郭、輪郭。
自分に言い聞かせ、踵を返す。
その日の終わり、七海が短く告げた。
「明日、外部の取材が一本、入る。社内報レベル。写真は控えめ、質問は事前提出。——“二人の距離”を、今より半歩だけ縮める」
「半歩」
「うん。安全な半歩。あなたの“呼吸”が初めて写る距離」
呼吸が写る。言葉だけで胸が熱くなる自分に、私は少し驚いた。
帰りのエレベーター。鏡に映る自分の顔は、昨日より少しだけ、輪郭がはっきりしていた。左手のリングが、小さく光る。仮初めの指輪は、約束の境界線を確かめるための道具だ。
それでも——と私は思う。
境界線そのものが、いつか私のほうへ一歩、動く日が来るのかもしれない、と。