副社長と仮初めの指輪

第5章「干渉しない条項が軋む夜」

 午前九時すぎ、広報から通達が降りた。外部の小規模メディアが、明日の午後に社内スペースで短い取材。質問は事前提出、撮影は二、三カット。私は画面の文面を読み終えて、深く息を吐いた。

 “半歩だけ縮める距離”。七海が昨日言った言葉が、胸のどこかに残っている。

 十時、会議室D。七海と法務が簡易ブリーフィングをして、最後に“連絡運用”の確認になった。

「干渉しない条項は維持。でも“安全確認”は例外にする。——一日一回、夜だけの相互連絡。本文は短文。位置情報は求めない。どう?」

 七海の視線が私に来る。私は迷ってから、頷いた。

「……夜、一回だけなら」

 そのとき、ドアがノックされ、彼が入ってきた。紺のスーツ、薄いストライプ。目が合う。ほんの一拍、胸が明るくなる。

「運用は理解した。だが——」と、彼は七海を見た。「例外の例外として、緊急時の即時連絡を条項に明記してほしい。送迎手配も含めて」

「文言は法務と詰める。佐伯さんに同意がある場合のみ、ね」

 七海が私の方へ頷く。私は「はい」と小さく答えた。

 昼、島のメンバーで外の定食屋に行く約束が入っていた。会議室を出ると、桜庭が廊下で待っている。

「鯖、今日もあるかな」

「あるといいな」

 何でもない会話に救われる。社内の空気は、薄いフィルムのように緊張をまとっている。こういう、温度が決まっているやり取りのほうが、今は楽だ。

 定食屋は揚げ油の匂いと、味噌汁の湯気で満ちていた。カウンターに腰掛け、注文を終える。桜庭が小声で言う。

「取材、あるんだって?」

「うん、明日。社内報みたいなレベル」

「大丈夫?」

「……大丈夫」

 言ってから、四文字が口の中で転がる。便利な言葉。けれど、今日は少し重かった。

 午後、戻ると同時にスマホが震えた。秘書室からの共有だ。

『明朝の送迎は不要の旨、承知しました。夜間は“安全確認”の短文のみで運用します』

 了解、とだけ返し、机に端末を伏せる。画面が暗くなると、左手のリングが代わりに光った。マットな銀。仮初めの輪郭。

 夕方、備品の検品。段ボールの口を開けば、紙の粉塵が舞う。私は指輪に傷がつかないよう手袋をはめ、次々とバーコードを読み取った。単純作業は、思考を静かに戻してくれる。

 定時少し前、七海からチャット。

『明日の取材、質問票が来た。“お互い、どのくらいの頻度で連絡を?”という項目——“仕事に支障のない範囲で、必要なときに”で統一する。私生活は開示しない』

『了解です』

『あと、匿名ログは今日だけで三件。全部“無視&保全”で処理したから、心配しないで』

『ありがとうございます』

 パソコンを閉じ、私は白茶のロールオンを手首に一滴。香りは静かに輪郭を描きなおす。夜の風が出る前に、と早足で会社を出た。

 ホームまでの道の途中、背中に小さな視線の粒が降ったような気がして、私は一度だけ振り返った。街路樹の影、蛍光灯に反射するガラス。誰もいない。気のせい——と言い聞かせる。

 電車の中、画面が一瞬白く弾けた。通知。差出人不明。

『黒のコート、似合ってた。手袋、白』

 呼吸が、胸の奥でずれる。車窓に映る自分の姿が、他人みたいだ。私は無意識に左手を握りしめ、指輪の冷たさで脈を整えた。七海の言葉が浮かぶ——“無視&保全”。

 けれど、指は勝手に動いた。宛先を探す。蓮のイニシャルが表示される。迷って、送る。

『すみません。今は大丈夫ですが、帰り道に“見られている”感じがありました。念のため共有です』

 送信ボタンを押した瞬間、胸の奥がきしむ。——干渉しない。条項の縁。

 返事はすぐに来た。

『共有、ありがとう。今どこ?』

『最寄り駅へ向かう電車です。あと二駅』

『自宅の最寄りに着いたら、駅前の本屋の前で立ち止まって。遠くから確認する。合流はしない。——許可を?』

 “許可”。たった三文字が、呼吸をつなぎ直す。私は小さく笑ってしまった。

『許可します。ただし、“見えない距離”で』

『了解。白茶』

 最後の一語に、頬の内側が熱くなる。私は端末を胸ポケットにしまい、ホームに降りた。

 駅前の本屋の前。雑誌の表紙が風に揺れ、若い歌手が笑っている。往来の中に立って、私は何もしていないふりをする。数十秒。視界のどこかの端で、濃紺のスーツの影が一瞬だけ動いた気がした。振り返らない。こちらを見ない。約束の内側。

 スマホが震える。

『確認した。背後からの尾行はなし。——帰宅したら、短文で知らせて』

『了解。白茶』

 返信を送ってから、私は小さく息を吐いた。干渉しない条項が軋む音はする。けれど、同意のある音だ。私はそれを、今日だけは肯定する。

 マンションのエントランスに入る。自動ドアのガラスに、細いリングが一瞬だけ映った。エレベーターに乗り、鍵を回す。部屋の空気は、いつもの温度だ。

『帰宅しました。無事です』

 送った直後、廊下に足音が止まる気配がして、私は反射的に身を固くした。ノック。一度。もう一度。

「真央?」

 桜庭の声だった。ため息が胸から抜ける。

「どうしたの?」

「今日の押印済みの書類、君の机の下に残ってた。明日の朝必要だろ? 帰りがけに気づいて」

「ありがとう。助かる」

 ドアチェーンをかけたまま受け取り、簡単に礼を言って閉める。覗き穴の向こうで、彼が少しだけ間を置いてから去っていく靴音がした。

 スマホが震える。

『誰か来てた?』

 胸の中の小さな笑いが、音にならない。

『同僚が、書類を届けてくれました』

『了解。——心臓が一瞬、速くなった』

『私もです』

 やり取りはそこで切れて、しばらく沈黙が流れた。シャワーを浴び、髪を拭いていると、また短い通知。

『安全確認の運用、“夜に一行”で始めよう。僕からも送る。——“白茶で眠れるように”の意味で、“W.T. Good night”とだけ』

 胸が熱くなる。私は指先でタオルを強く握り、深呼吸してから、返信を打った。

『了解。“白茶で眠れますように”。おやすみなさい』

 送信。画面に浮かぶ文字が、やわらかい灯りみたいに見える。

 ベッドサイドに箱を置き、指輪を外そうとして、やめた。今日は、つけたまま眠る。枕の隣でスマホが小さく震える。

『W.T. Good night』

 ただそれだけ。たったそれだけが、今日の私には大きかった。

 翌朝。取材当日。七海のチャットが早朝に届く。

『本日の動線、最終確認。——“二人で姿勢を正す”カットが一枚入る。距離は昨日より四分の一歩だけ近く』

『了解』

 玄関の鏡に映る自分の顔は、少しだけ引き締まっている。白茶の香りをすべらせ、左手のリングを親指で確かめる。条項は軋む。けれど、音のたびに、私の輪郭はむしろはっきりする。

 会社に着くと、ロビーの空気がいつもより澄んで見えた。七海が端でタブレットを持ち、目で合図を送る。歩幅。目線。距離。

 彼がエントランスから現れる。視線が短く絡み、ほどける。私たちは並び、同時に姿勢を正した。カメラのシャッターが静かに落ちる。四分の一歩の距離。胸の高鳴りは、社内の誰にも見えない。

 取材は淡々と進み、約束の時間で終わった。解散の直前、七海が私にだけ聞こえる声で言う。

「夜の一行、いい運用だと思う。干渉は、同意がある限り、守りに化ける」

 私は驚いて、彼女を見た。七海は、わずかにだけ口角を上げる。

「“武器”にも、なるけどね」

 午後、通常業務に戻る。単純作業を淡々とこなしていると、内線が灯った。番号は秘書室。河野だ。

『明日の朝の会食がキャンセルに。代わりに役員フロアで臨時の協議。——それと、リング本体の仮刻印、上がったそうです』

「ありがとうございます」

 切った受話器を置いたとき、社内チャットがざわめいた。“役員フロア、セキュリティ強化”“誰か来るの?”——情報の粒が跳ねる。

 私は一度、画面から目を離した。白茶のキャップを回し、香りをまとい直す。静かな輪郭。仮初めの指輪を親指で触れ、机上のスケジュール帳に小さく書き込んだ。

 “夜:W.T.”

 干渉しない約束は、軋むたびに形を変える。私たちは今、同じ音を聞いている。
 そしてその音が、たしかに同意の上に鳴っていることを、私は忘れないでいようと思った。
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