副社長と仮初めの指輪

第6章「バルコニーの影」

 取材の翌朝、広報からのデブリーフは驚くほど短かった。

「表情、距離、どちらも良好。記事化は社内限定、三枚構成。——以上」

 七海は端末を閉じ、口角だけで笑った。

「夜の“一行”も続けて。守り方は、習慣になるほど強い」

「はい」

「それと今夜、ホテル・レクシアで業界団体の小規模レセプション。乾杯だけ“描写”が要る」

 乾杯だけ。必要最小限。私は頷き、席に戻った。机上のリングが蛍光灯を淡く返す。仮初めの輪郭は、今日も軽い。けれど胸の内側は、昨日より少しだけ重かった。
 “半歩”を縮めたぶん、息の音が自分にも聞こえてしまう。

 夕方、搬入口で河野が待っている。

「ドレスコードは昨日と同じくセミフォーマル。ラウンジを抜けて大ホールへ、その後は——」

「乾杯の撮影、一枚で解散、ですね」

「はい。撮影後に“休憩”の名目でバルコニーに出ます。人の少ない動線を確保しています」

 バルコニー。夜風。高層の匂い。私は白茶のロールオンを手首に一滴滑らせ、車に乗りこんだ。

 レクシアのホールは、昨日より光が柔らかい。淡い金のスパンコールがテーブルクロスに散り、シャンデリアが海の泡みたいに天井で揺れている。彼はすでに来ていて、私を見ると短く頷いた。

「大丈夫?」

「はい」

 今日の“大丈夫”は嘘ではない。ただ、音が薄い。彼はそれ以上を問わない。七海が視線で合図し、私たちは並ぶ。シャッター音が一度。グラスが触れ合う小さな音。
 それだけで十分なはずだった。

 乾杯の後、七海が近づく。

「少し休憩しましょう。空気、変えに」

 導かれるままに、私は彼と短い廊下を抜け、バルコニーへ出た。遠くまで街が光り、風が髪をほどく。ガラスの手すり越しに、タクシーの列が箱庭のように見えた。

「寒くない?」

「大丈夫です」

 彼はジャケットに手をかけかけ、やめる。——干渉しない。約束が、彼の仕草に線を引く。
 会話の隙間に風が入ってきたとき、内側のドアが開いた。七海が二人分の水を持って現れる。

「喉、乾くでしょう。……蓮、五分だけ、話せる?」

「今?」

「役員から直で入った件。延長の可能性」

 延長。胸のどこかが、ごく小さく軋んだ。

「——佐伯さん、ごめん。すぐ戻る」

「はい。私はここで」

 彼と七海が、バルコニーの奥へ数歩。私は手すりの影に身を寄せ、風の音に自分の鼓動を紛れ込ませる。聞くつもりはない。けれど、言葉は風に混じって、こちらへ落ちてきた。

「合併のクロージングが押す。広報対応、少なくとも一か月分は“婚約者の描写”が必要になる」

「……延長、三か月の?」

「二か月でも足りないかもしれない。——ただし」

 間。七海の声が低くなる。

「彼女の負担は増える。匿名も増える。守り切れる?」

「守る」

「会社を?」

「彼女を」

 鼓動が一瞬、静かになる。次に跳ねたとき、言葉は別の色で聞こえた。

「——それで、彼女は納得する?」

「僕らが決めていいことじゃない。本人の意思が第一だ」

「……そうね。昔みたいに、私が全部決めて、それにあなたが黙って頷く、なんて時代じゃない」

「昔の話は、今は要らない」

 昔。七海の笑いが、風に削られて薄く響く。

「要らないか。要るかどうかは、彼女が決めることでもあるけど」

「七海」

「わかってる。——彼女は立っていられる人。でも、強い人ほど、一度折れたら戻らない」

 足元の影が、風でわずかに揺れた。私は視線を落とし、左手のリングを親指でなでる。マットな銀が、いつもより冷たい。

「本人に、延長の話をする。今日ではない」

「そうして。……それと」

 七海が声を落とした。私は無意識に、さらに影の方へ寄る。

「さっき、ホールの柱の陰にいたわ。長いレンズ。出入りのスタッフに紛れてた」

「気づいた?」

「撮られたかも。私と——あなたの、距離も」

 ほんの少し、胃の底が固くなる音がした。
 七海の指が彼のネクタイに伸びる気配が、言葉ではなく空気でわかった。いつもの、業務的な仕草。

「蓮、結び目、少し曲がってる」

「……ありがとう」

「職務よ」

 私は顔を上げきれない。ガラスに映る二人の影が、風で重なっては離れる。
 延長。昔。距離。
 意味のある単語だけが、選ばれて耳に残る。

「戻ろう」

 彼の声で、空気がほどけた。私は慌てて目線を街に戻し、手すりから離れた。彼と七海が並んでこちらに歩いてくる。七海はいつもの仕事の顔に戻り、私に水のグラスを差し出した。

「戻る?」

「はい」

 ホールへ戻る道、彼が小さく問う。

「寒くなかった?」

「大丈夫です」

 返事は正しかった。正しいのに、どこか、擦れていた。

 レセプションは予定通りに終わり、私は搬入口で挨拶をして先に車に乗った。ドアが閉まる直前、振り返った視界の端に、七海の薄桃色が一瞬だけ残った。
 頭の中で、風がしばらく止まらない。

 帰宅。鍵を回す音が乾いて、白茶の香りがやけに静かだ。スマホが震く。

『帰宅、無事?』

 彼からの“一行”。私は親指を宙で止め、いつもの型で打つ。

『無事です。お疲れさまでした』

 送信。しばらくして、もう一行。

『延長の件が出た。すぐには決めない。——君の意思が第一だ』

 指先が止まる。胸の奥で、鈍い音がした。
 延長。彼の言葉は、まっすぐだ。それでも、私の耳は仕事の音を拾ってしまう。

『了解。考えます』

 それだけを送り、スマホを伏せた。
 白茶のロールオンを手首に一滴。脈が静かに返事をする。
 ——干渉しない。
 唱えるほどに、条項の縁が、別の形で軋む。

 シャワーの音で思考を薄め、髪を拭いて戻ると、未読がひとつ増えていた。差出人不明。

『バルコニーで耳打ちしてたの、誰? 指輪より似合ってた』

 手が、ひやりと冷える。削除。深呼吸。七海の“無視&保全”。
 すぐに、河野からも連絡が来た。

『本日レセプションでの非公式撮影について、監視カメラログの抽出を開始しました。ご安心ください』

 “ご安心ください”。文字は軽い。でも、支える。私は礼を返し、灯りを少し落とした。
 ベッドサイドに箱を置き、指輪を外そうとして、またやめる。
 左手の小さな輪は、今日、少し重かった。なのに、外すことの方が、怖い。

 枕元で、スマホが小さく震えた。

『W.T. Good night』

 私は、ほんの少しだけ遅れて返す。

『W.T. Good night』

 文字が光を落とし、部屋が静まる。
 目を閉じると、ガラスの手すりに重なる二つの影が、風でほどけたり、寄ったりする。業務の仕草。昔の話。延長の二文字。
 どれも“正しい”のだろう。
 ——でも、正しい音ばかりが重なる夜は、やけに心細い。

 翌朝。社のロビーで、七海が一人、携帯を耳に当てていた。切ると同時に、私に視線を向ける。

「昨夜の件、ログ追えてる。あのレンズ、業者じゃない。出入りのフリー。——私が止める」

「ありがとうございます」

「それと——延長の話。私からも謝る。あなたの耳に入る前に、風に乗ったわね」

 私は首を振った。

「七海さんのせいじゃないです」

「せいかどうかは、現場の責任者が決めること。……ねえ、佐伯さん」

「はい」

「“嫌だ”と言っていい。延長も、レンズも、私のネクタイ直しだって。何でも」

 昨日のバルコニーの風が、言葉の隙間から顔を出す。私は少しだけ迷ってから、頷いた。

「……ひとつだけ」

「なに?」

「“昔”って、どのくらい、長いんですか」

 七海は短く瞬き、答えを選ぶみたいに息を整えた。

「——私たちは、長い。でも、“昔”は、今のあなたの時間には置かない」

 それは、告白ではなく、判断の文体だった。私は礼を言い、総務の島へ戻る。

 午前の雑務。午後の小会議。数字の列と印鑑の朱肉。単純な動きに身を預けていると、呼吸がやっと地面を見つけてくれる。
 定時少し前、役員フロアから内線が来た。

『刻印、上がった。今夜、渡せる』

 短い言葉の端に、わずかな熱があった。私は時計を見て、うなずく。

「伺います」

 夜、会議室C。灯りを落とした部屋に、白い小箱が一つ。彼がそれを差し出す。

「仮の刻印だ。——開けても?」

「はい」

 蓋を上げる。マットな銀の内側に、小さな刻印。
 “W.T.”

 たった二文字が、思ったより深かった。深さは、音に似ている。
 私はゆっくり指に滑らせ、息を吸う。

「どう?」

「……大丈夫です。重さも、音も」

「音?」

「はい。——合う、音です」

 彼は少しだけ笑った。照明の縁が、横顔に薄くかかる。

「延長の件は、今は話さない。君の呼吸が整ってからでいい」

「……ありがとう、ございます」

「僕は会社を守る。でも同じだけ、君を守りたい。順序は、同じにしたい」

 順序。私は頷いた。言葉を増やすと、どこかの線がずれそうで、これ以上は言わなかった。

 部屋を出ると、廊下の先に七海が立っていた。薄桃色のジャケット、端的な笑み。

「渡った?」

「はい」

「よかった。——帰り、気をつけて」

 短い言葉に、昨日の風の音はもうなかった。
 エレベーターに乗り、鏡に映る自分の指輪を見た。小さな“W.T.”が、蛍光灯の白に溶ける。
 仮初めの指輪は、やっぱり仮初めだ。けれど、今夜だけは——
 仮初めのほうが、少し、強い気がした。
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