副社長と仮初めの指輪
第7章 すれ違いの指輪サイズ
月曜の朝、書庫の奥は紙の匂いで満ちていた。棚卸しのため、総務に臨時で回ってきた段ボールの山。私は軍手の上に薄手の手袋を重ね、ラベルを貼り替えていく。
硬い段ボールの縁が左手の甲をかすめた。ちいさな痛み。見ると、薬指の根元に擦れた赤い線が走っている。指輪の内側に刻まれた“W.T.”の二文字が、白い光を細く返した。
(ちょっと、きつい)
週末に少しむくんだのかもしれない。水場で石けんを使って外そうとすると、金属が皮膚を掴んで離れない。私は息を止め、角度を変え、やっとの思いで外した。指の跡が白く残る。
その瞬間、内線が鳴った。受話器を肩に挟んで応対し、戻った時には、洗面台の縁に置いたはずのリングが見当たらなかった。胸がきゅっと冷たくなる。
(ない)
視線で探し回り、タオルの影から滑り落ちた小さな銀を見つけた時、膝の力が抜けそうになった。白茶の香りを手首に一滴。落ち着け、と自分に言い聞かせる。
十時、広報からチャットが飛ぶ。
『昼、ラウンジで一枚。新人記事の“日常”差し替え用』
『了解です』
指輪はポケットに入れた。赤い線の痛みはまだ熱く、つけ直すのをためらった。昼までに少し腫れが引けば——そう期待して仕事に戻る。
正午、ラウンジ。窓際で待つ七海が私の手元を見て、瞬きひとつで状況を理解した。
「サイズ、合わない?」
「今朝、少し……擦れて。昼には」
「今日は外して。——代わりのモック、持ってきたけど、無理はしない」
彼もこちらへ歩いてきて、視線が私の左手とポケットの膨らみを往復した。
「痛む?」
「ちょっとだけ。だから今日は——」
「外そう。無理はしない」
七海が広角で一枚だけ切り取り、私たちは数分で解散した。距離はいつも通り。けれど、指先だけが裸のまま、風にさらされているみたいに心許ない。
午後、匿名アカウントから通知が跳ねた。
『指輪、外したね。やっぱり“仮”だから?』
削除。七海へ転送。呼吸を整える。紙の粉塵の匂いに、白茶を重ねる。
定時前、会議室Cに呼ばれた。扉を開けると、彼と七海、そして薄い白の封筒がテーブルに置かれている。
「サイズの件、サロンに連絡した。今夜、メンテの枠を押さえられる」
彼が言い、七海が続ける。
「“半号落とす”か“内側を丸くする”か。どちらも翌日返し」
私は立ち尽くしたまま、ポケットの中の冷たい小さな輪をつまむ。
「……今日、私が勝手に外したせいで、写真に“写らない左手”が出ました。すみません」
「謝る案件じゃないよ。安全第一」
七海の声は、現場の温度だった。彼が私へ視線を移す。
「痛むのに着け続ける必要はない。今日は外して」
「でも、サロンに今夜……それは“干渉しない”の線を越えてませんか」
言ってから、言葉の棘に自分で驚いた。七海がわずかに眉を寄せ、彼は否定も反論もせず、静かに呼吸を整える。
「——線を確かめながらでいい。僕ができるのは“段取りの用意”。決めるのは、君」
用意と決定。私はうなずいた。
「……明日の朝、行きます。仕事の前に。今夜は、大丈夫です」
「了解。送迎は——」
「電車で」
七海が端末に何かを打ち込み、「明朝七時半、サロン」とだけ告げた。会議室を出る。廊下の空気が、ふいに薄くなる。
角を曲がった先に、桜庭が立っていた。紙袋を持ち、こちらを見る目が一瞬だけ揺れる。
「……痛い?」
「平気。ちょっと擦れただけ」
「そうか。——これ、島への差し入れ。甘いもの。食べて」
紙袋の底に整列したフィナンシェ。私は笑って礼を言う。桜庭の視線が、私の左手の“何もない”場所に、触れて、外れた。
「似合ってたよ、指輪」
「……ありがとう」
「うん」
そのうなずきは小さく、やさしかった。
夜、帰宅。玄関の鏡の前で、ポケットからリングを出す。白い線は少し薄くなっている。手のひらにのせると、仮初めの輪は、小さな月みたいに黙っている。
スマホが震えた。
『帰宅、無事?』
『無事です。明朝、サロンへ寄ってから出社します』
数秒の間。すぐに返信。
『了解。送迎は控える。——“痛い時は外す”。条項に加える?』
思わず笑ってしまう。条項。契約の言葉は時々、心を救う。
『加えましょう。“痛い時は外す”。“同意のある配慮は干渉にあらず”。』
『採用。W.T. Good night』
『W.T. Good night』
画面の光が落ちる。ポーチから白茶のロールオンを出し、脈に触れさせる。香りは輪郭を描き、輪郭は少しだけ強くなる。私はリングを小皿に置き、灯りを落とした。
明け方、空がまだ青い時間に目が覚めた。指をなぞると、痛みは引いている。私は早めに支度して家を出た。サロンのドアベルは優しい音を立て、小さな鏡の国へ迎え入れる。
「おはようございます。——擦れ、ですね。内側を“丸く”調整しましょう」
職人の手は早かった。工具の微かな音。金属の粉が光になって舞い、すぐに消える。十五分ほどで、仮初めの輪は戻ってきた。
「試してみてください」
滑らせる。すっと入る。痛みはない。指の肌に沿う、柔らかな円。
「……大丈夫です」
「よかった。刻印はそのまま。深すぎず、浅すぎず」
私は礼を言い、店を出る。朝の空気は冷たく澄んでいて、白茶の香りがよく立った。駅へ向かう横断歩道の手前で、通知が震える。
『サイズ、どう?』
『内側を丸くしてもらいました。ちょうどいいです』
『よかった』
短い二語が、思った以上に温かい。私はスクリーンを伏せ、会社へ歩く。
出社すると、社内SNSの“日常”スレッドに、昨夜の新人記事の差し替えが上がっていた。窓際の写真。昨日はリングなしの手元が、さりげない影として残っている。
コメント欄に、短い一行。
「“痛い時は外す”——いいルール」
ユーザー名は七海ではない。匿名ではない。経営企画の女性のアカウント。私は息を吐き、肩の力が抜けた。
十時。会議室Dへ移動中、廊下の角で彼と鉢合わせた。視線が私の左手に落ちる。それから、目の奥がほんの少しだけ柔らかくなる。
「……どう?」
「ちょうどいいです」
「見せて」
言葉は控えめだった。私は手の甲を軽く持ち上げ、彼の視線に差し出す。指先が触れない距離。干渉しない約束の中で許された一番近いところ。
「よく似合う」
それは、誰の前でも言える言葉なのに、どうしてか胸の内側で別の意味に変換される。私は頷いた。
「ありがとう、ございます」
会議室の扉が開き、七海が端末を持ったまま入ってきた。こちらを一瞥して、事務的に告げる。
「今日の予定は通常運転。夜、役員フロアで“延長”の事前資料が回る。——本人合意が前提」
彼が短くうなずく。七海の視線が、私の指に落ちる。
「調整、うまくいった?」
「はい」
「よかった。人間の身体は日々変わる。ルールも同じ」
それは昨日の夜の続きみたいで、少しだけ救われる。
午前が終わる頃、社内掲示に新しいコメントがついた。「サイズ問題、あるある」「“痛い時は外す”、広めたい」。意外と多くの人が“輪”の扱いに悩んでいるのだと知って、胸の緊張がほどけた。
昼、島のメンバーで弁当を広げる。桜庭が箸袋を配りながら、控えめに尋ねた。
「調子、どう?」
「平気。丸くしてもらった」
「そう。——よかった」
その“よかった”は、仕事でも噂でもない場所から来る。私は「ありがとう」と返した。
午後、プリンター前で紙づまり。上蓋を開け、ローラーを外し、紙を引き出す。ほんの一瞬、指輪がローラーに触れた。冷たい音。すぐに手を引く。
(守るのは、この生活)
白茶の香りが、薄く漂った。
定時少し前、役員フロアから内線。
『延長の資料、七海経由で共有します。決めるのは、いつでも』
呼吸が一度だけ乱れ、すぐ整う。指輪は、指の上で、ただの円を続けている。
帰りのエレベーター。鏡に映る自分の輪郭は、昨日よりわずかにやわらかい。画面が震える。
『W.T.?』
彼から。私は笑って、短く打つ。
『W.T. 今日は“ちょうどいい”です』
『ちょうどいい。——いい言葉だ』
扉が開く。夜風が入る。私は左手をポケットに入れ、指の内側の“まるさ”を確かめる。
——小さな破綻は、きっと何度でも来る。
でも、破綻のたびに、私たちは「ちょうどいい」を探せるのかもしれない。
白茶の香りが、夜にほどけていった。
硬い段ボールの縁が左手の甲をかすめた。ちいさな痛み。見ると、薬指の根元に擦れた赤い線が走っている。指輪の内側に刻まれた“W.T.”の二文字が、白い光を細く返した。
(ちょっと、きつい)
週末に少しむくんだのかもしれない。水場で石けんを使って外そうとすると、金属が皮膚を掴んで離れない。私は息を止め、角度を変え、やっとの思いで外した。指の跡が白く残る。
その瞬間、内線が鳴った。受話器を肩に挟んで応対し、戻った時には、洗面台の縁に置いたはずのリングが見当たらなかった。胸がきゅっと冷たくなる。
(ない)
視線で探し回り、タオルの影から滑り落ちた小さな銀を見つけた時、膝の力が抜けそうになった。白茶の香りを手首に一滴。落ち着け、と自分に言い聞かせる。
十時、広報からチャットが飛ぶ。
『昼、ラウンジで一枚。新人記事の“日常”差し替え用』
『了解です』
指輪はポケットに入れた。赤い線の痛みはまだ熱く、つけ直すのをためらった。昼までに少し腫れが引けば——そう期待して仕事に戻る。
正午、ラウンジ。窓際で待つ七海が私の手元を見て、瞬きひとつで状況を理解した。
「サイズ、合わない?」
「今朝、少し……擦れて。昼には」
「今日は外して。——代わりのモック、持ってきたけど、無理はしない」
彼もこちらへ歩いてきて、視線が私の左手とポケットの膨らみを往復した。
「痛む?」
「ちょっとだけ。だから今日は——」
「外そう。無理はしない」
七海が広角で一枚だけ切り取り、私たちは数分で解散した。距離はいつも通り。けれど、指先だけが裸のまま、風にさらされているみたいに心許ない。
午後、匿名アカウントから通知が跳ねた。
『指輪、外したね。やっぱり“仮”だから?』
削除。七海へ転送。呼吸を整える。紙の粉塵の匂いに、白茶を重ねる。
定時前、会議室Cに呼ばれた。扉を開けると、彼と七海、そして薄い白の封筒がテーブルに置かれている。
「サイズの件、サロンに連絡した。今夜、メンテの枠を押さえられる」
彼が言い、七海が続ける。
「“半号落とす”か“内側を丸くする”か。どちらも翌日返し」
私は立ち尽くしたまま、ポケットの中の冷たい小さな輪をつまむ。
「……今日、私が勝手に外したせいで、写真に“写らない左手”が出ました。すみません」
「謝る案件じゃないよ。安全第一」
七海の声は、現場の温度だった。彼が私へ視線を移す。
「痛むのに着け続ける必要はない。今日は外して」
「でも、サロンに今夜……それは“干渉しない”の線を越えてませんか」
言ってから、言葉の棘に自分で驚いた。七海がわずかに眉を寄せ、彼は否定も反論もせず、静かに呼吸を整える。
「——線を確かめながらでいい。僕ができるのは“段取りの用意”。決めるのは、君」
用意と決定。私はうなずいた。
「……明日の朝、行きます。仕事の前に。今夜は、大丈夫です」
「了解。送迎は——」
「電車で」
七海が端末に何かを打ち込み、「明朝七時半、サロン」とだけ告げた。会議室を出る。廊下の空気が、ふいに薄くなる。
角を曲がった先に、桜庭が立っていた。紙袋を持ち、こちらを見る目が一瞬だけ揺れる。
「……痛い?」
「平気。ちょっと擦れただけ」
「そうか。——これ、島への差し入れ。甘いもの。食べて」
紙袋の底に整列したフィナンシェ。私は笑って礼を言う。桜庭の視線が、私の左手の“何もない”場所に、触れて、外れた。
「似合ってたよ、指輪」
「……ありがとう」
「うん」
そのうなずきは小さく、やさしかった。
夜、帰宅。玄関の鏡の前で、ポケットからリングを出す。白い線は少し薄くなっている。手のひらにのせると、仮初めの輪は、小さな月みたいに黙っている。
スマホが震えた。
『帰宅、無事?』
『無事です。明朝、サロンへ寄ってから出社します』
数秒の間。すぐに返信。
『了解。送迎は控える。——“痛い時は外す”。条項に加える?』
思わず笑ってしまう。条項。契約の言葉は時々、心を救う。
『加えましょう。“痛い時は外す”。“同意のある配慮は干渉にあらず”。』
『採用。W.T. Good night』
『W.T. Good night』
画面の光が落ちる。ポーチから白茶のロールオンを出し、脈に触れさせる。香りは輪郭を描き、輪郭は少しだけ強くなる。私はリングを小皿に置き、灯りを落とした。
明け方、空がまだ青い時間に目が覚めた。指をなぞると、痛みは引いている。私は早めに支度して家を出た。サロンのドアベルは優しい音を立て、小さな鏡の国へ迎え入れる。
「おはようございます。——擦れ、ですね。内側を“丸く”調整しましょう」
職人の手は早かった。工具の微かな音。金属の粉が光になって舞い、すぐに消える。十五分ほどで、仮初めの輪は戻ってきた。
「試してみてください」
滑らせる。すっと入る。痛みはない。指の肌に沿う、柔らかな円。
「……大丈夫です」
「よかった。刻印はそのまま。深すぎず、浅すぎず」
私は礼を言い、店を出る。朝の空気は冷たく澄んでいて、白茶の香りがよく立った。駅へ向かう横断歩道の手前で、通知が震える。
『サイズ、どう?』
『内側を丸くしてもらいました。ちょうどいいです』
『よかった』
短い二語が、思った以上に温かい。私はスクリーンを伏せ、会社へ歩く。
出社すると、社内SNSの“日常”スレッドに、昨夜の新人記事の差し替えが上がっていた。窓際の写真。昨日はリングなしの手元が、さりげない影として残っている。
コメント欄に、短い一行。
「“痛い時は外す”——いいルール」
ユーザー名は七海ではない。匿名ではない。経営企画の女性のアカウント。私は息を吐き、肩の力が抜けた。
十時。会議室Dへ移動中、廊下の角で彼と鉢合わせた。視線が私の左手に落ちる。それから、目の奥がほんの少しだけ柔らかくなる。
「……どう?」
「ちょうどいいです」
「見せて」
言葉は控えめだった。私は手の甲を軽く持ち上げ、彼の視線に差し出す。指先が触れない距離。干渉しない約束の中で許された一番近いところ。
「よく似合う」
それは、誰の前でも言える言葉なのに、どうしてか胸の内側で別の意味に変換される。私は頷いた。
「ありがとう、ございます」
会議室の扉が開き、七海が端末を持ったまま入ってきた。こちらを一瞥して、事務的に告げる。
「今日の予定は通常運転。夜、役員フロアで“延長”の事前資料が回る。——本人合意が前提」
彼が短くうなずく。七海の視線が、私の指に落ちる。
「調整、うまくいった?」
「はい」
「よかった。人間の身体は日々変わる。ルールも同じ」
それは昨日の夜の続きみたいで、少しだけ救われる。
午前が終わる頃、社内掲示に新しいコメントがついた。「サイズ問題、あるある」「“痛い時は外す”、広めたい」。意外と多くの人が“輪”の扱いに悩んでいるのだと知って、胸の緊張がほどけた。
昼、島のメンバーで弁当を広げる。桜庭が箸袋を配りながら、控えめに尋ねた。
「調子、どう?」
「平気。丸くしてもらった」
「そう。——よかった」
その“よかった”は、仕事でも噂でもない場所から来る。私は「ありがとう」と返した。
午後、プリンター前で紙づまり。上蓋を開け、ローラーを外し、紙を引き出す。ほんの一瞬、指輪がローラーに触れた。冷たい音。すぐに手を引く。
(守るのは、この生活)
白茶の香りが、薄く漂った。
定時少し前、役員フロアから内線。
『延長の資料、七海経由で共有します。決めるのは、いつでも』
呼吸が一度だけ乱れ、すぐ整う。指輪は、指の上で、ただの円を続けている。
帰りのエレベーター。鏡に映る自分の輪郭は、昨日よりわずかにやわらかい。画面が震える。
『W.T.?』
彼から。私は笑って、短く打つ。
『W.T. 今日は“ちょうどいい”です』
『ちょうどいい。——いい言葉だ』
扉が開く。夜風が入る。私は左手をポケットに入れ、指の内側の“まるさ”を確かめる。
——小さな破綻は、きっと何度でも来る。
でも、破綻のたびに、私たちは「ちょうどいい」を探せるのかもしれない。
白茶の香りが、夜にほどけていった。