副社長と仮初めの指輪
第8章 社内チャットの炎上
朝いちばん、社内チャットのサイドバーが赤く点いた。未読の数字が雪崩れていく。
「#雑談」「#ラウンジ」「#役員フォトログ」。どのチャンネルにも同じリンクが貼られていた——まとめサイトの見出し。
『【長尺レンズで撮影】某グループ副社長“婚約者は偽装”? バルコニーでPRと親密ショットか』
胸の奥で、冷たい鐘が鳴る。
クリックはしない。サムネイルの小さな写真だけで、昨夜の空気が喉に戻ってきた。薄桃色と濃紺、風、結び目。
私は白茶のロールオンを手首にひと滴転がし、画面を閉じた。
ほどなく、七海から全社アナウンスが流れる。
『外部リンクの共有は控えてください。社内フォトログの転載も禁止。問い合わせは広報に一元化します。——広報本部』
端的で、強い文。けれど、タイムラインの速度は落ちない。
“目”のスタンプが“火”に変わる。温度が上がる音が、画面から立ち上る。
デスクに戻ると、桜庭が私の視線を見計らって口を開いた。
「雑談チャンネル、ミュートにしとけよ」
「もう、した。ありがとう」
「昼、外出する?」
「今日は会社にいる」
「わかった。……水、いる?」
「うん」
紙コップが差し出される。小さな動作が、体温を戻す。
十時、会議室D。臨時の“危機対応スタンドアップ”。七海が短く状況を切る。
「拡散は“会社外→会社内”の順。外部まとめの一次ソースは“昨夜のフリー”。社内の転載は監視で落としていく。匿名は広報チームで受け止める。——佐伯さん」
「はい」
「安全上の導線、今日から一週間、変更する。入退館は裏のゲート。帰宅は秘書室のルートで。許可、もらえる?」
干渉しない約束が頭をよぎる。けれど、息がひとつ、自然に整っていた。
「許可します」
「ありがとう。河野、詳細送って」
「はい」
七海は続けた。
「“婚約者は偽装”の文言は否定も肯定もしない。社内向けには“人権尊重と情報共有の線引き”で統一。感情に反応するな。——蓮は?」
ドアが開き、彼が入ってきた。視線が一瞬だけ私に触れ、会議の温度に合わさる。
「午後、社内タウンホールを開く。十分だけ。——“誰にどんな配慮が必要か”だけを話す。個人情報は語らない」
「賛成」
七海がうなずく。「“噂の温度”は一気に冷やすより、吹きこぼれないよう弱火で。——そのための十分」
私は手元のペンを握り直した。輪郭。輪郭。
昼前、匿名のDMが弾む。
『バルコニーで寄り添ってたの、見た。“彼女”はスタッフだよね? 名前、知ってる』
削除。七海へ転送。受信の手順は身体に落ちている。
同時に、知らない差出人からの優しいメッセージも届いた。
『社内の雰囲気がちょっとザワついてますが、応援してます。匿名でごめんなさい』
その匿名だけは、削除しないで閉じた。
白茶の香りを深く吸って、午後へ進む。
正午、ラウンジ。いつものように水を受け取る。視線がこちらへ寄っては離れ、噂の粒が空中を漂う。
七海が壁際で端末を構え、こちらに近づくと、声を落とした。
「“火”が少し強い。午後の十分、重要になる」
「はい」
「それと——」
七海は目を細め、私の表情を一瞬だけ測る。「彼の結び目は、今日は私が触らない」
胸のどこかが、ゆっくりほどけた。
午後三時、タウンホール。大部屋のスクリーンに、会社の行動規範が映る。
彼はゆっくりと歩調を合わせて壇上へ上がり、短く話し始めた。
「合併の最終局面で、皆に負荷がかかっている。噂は、緊張の出口になりうる。だが、誰かの生活に踏み込むことは、仕事ではない」
声は抑えていて、柔らかい。
私は後方の椅子で、指輪の内側の“W.T.”を親指でなぞる。
「会社は会社を守る。だが、それと同じだけ、会社は“人”を守る。——それは順序ではなく、同時だ」
スクリーンに“人権尊重/個人情報/社内コミュニケーションの原則”が並ぶ。
彼は最後に一言だけ足した。
「誰かが怖いときは、怖いと言ってほしい。守る手は、こちらにある」
拍手は小さく、長く続いた。温度が少し下がった気がした。
終了後、七海が素早くチャンネルにまとめを投下する。法務の文言、通報窓口、転載禁止、連絡経路。
私はモニタを閉じ、深く息を吐いた。
夕方、コピー機の前で紙詰まり。腕まくりし、手を入れる。ふいに背後で囁き声がした。
「PRの七海さんと付き合ってたって、ほんと?」
「だってネクタイ、何度も直してるじゃん。婚約者は“守るため”のカモフラって」
「じゃ、相手は……総務の、佐——」
紙の音をわざと大きくした。二人は慌てて沈黙し、足音を急がせる。
ローラーから紙を抜きながら、私は左手の輪を確かめた。
——怖い、と言っていい。
喉の奥で言葉が形になり、私は振り返る。
「さっきの話、私が聞いていました。社内フォトログの解釈や個人名の推測は、やめてください。広報の文面を読んでください」
二人は目を丸くし、浅く会釈して去っていく。手が少し震えた。震えは止まらないけれど、輪郭は崩れない。
そこへ、桜庭の声。
「大丈夫?」
「……大丈夫。怖いって、言えた」
「えらい」
短い言葉が、背中に置かれる。体温は戻る。
定時少し前、七海からダイレクト。
『温度、下がり始めた。よく立ってたね。——帰りの導線、変更なし。裏ゲートで』
『了解しました』
帰り支度をして席を立つと、机に小さな封筒が置かれていた。差出人は経営企画の女性。昼の“いいルール”の人。
中には付箋が一枚。
『“痛い時は外す”拝借しました。ありがとう。——あなたの輪郭、会社で守ります』
喉の奥が熱くなる。封筒を胸ポケットにしまい、白茶の香りで呼吸を整える。
裏ゲートまでの廊下は静かだった。角を曲がると、彼が立っている。視線で合図だけ交わす。
近づかない。触れない。
彼は私と同じ歩幅で、出口の少し手前まで並んで歩き、ドアが開く風が来たところで、短く言った。
「怖いときは、怖いと言えた?」
「言えました」
「よかった」
「……タウンホール、ありがとうございました」
「こちらこそ。——夜、いつもの一行を」
「はい」
互いに一礼だけして、離れる。
外気は、昼より少し冷たい。
駅までの道、スマホが震えた。差出人不明。
『駅はあっちじゃないの?』
足がすくみかけて、止めた。
深呼吸。七海に転送。“無視&保全”。秘書室のルートをなぞる。
五分後、河野から返信。
『裏手のカメラに一名。警備が対応しました。——そのまま真っ直ぐ駅へ』
『ありがとうございます』
ホームに着く。電車が滑り込み、ドアが開く。車内の蛍光灯に、指輪が小さく光る。
息がゆっくり落ち着いていく。
帰宅して灯りを点けると、すぐに“一行”が届いた。
『W.T. 今日も輪郭は君のもの?』
笑ってしまう。私は短く返した。
『W.T. はい。少し震えましたが、輪郭は保ちました』
『Good. 震える手は、守る手と両立する』
『覚えておきます』
画面を伏せ、指輪を外す。内側の“W.T.”を目でなぞる。
シャワーの湯気の中で、今日の温度が少しずつ溶ける。
ベッドに入る前、もう一度スマホが震えた。
彼からではない。七海でも、桜庭でもない。
見知らぬアドレスから、一行。
『ご令嬢、じゃない君へ——強く立って。味方は多いよ』
削除はしない。転送もしない。
ただ、胸ポケットの封筒と同じ場所に、その一行を置いた気持ちで、私は目を閉じた。
——火は、まだ消えない。けれど、鍋は吹きこぼれていない。
弱火を保つ手が、今日は確かにあったのだと、思いながら。
「#雑談」「#ラウンジ」「#役員フォトログ」。どのチャンネルにも同じリンクが貼られていた——まとめサイトの見出し。
『【長尺レンズで撮影】某グループ副社長“婚約者は偽装”? バルコニーでPRと親密ショットか』
胸の奥で、冷たい鐘が鳴る。
クリックはしない。サムネイルの小さな写真だけで、昨夜の空気が喉に戻ってきた。薄桃色と濃紺、風、結び目。
私は白茶のロールオンを手首にひと滴転がし、画面を閉じた。
ほどなく、七海から全社アナウンスが流れる。
『外部リンクの共有は控えてください。社内フォトログの転載も禁止。問い合わせは広報に一元化します。——広報本部』
端的で、強い文。けれど、タイムラインの速度は落ちない。
“目”のスタンプが“火”に変わる。温度が上がる音が、画面から立ち上る。
デスクに戻ると、桜庭が私の視線を見計らって口を開いた。
「雑談チャンネル、ミュートにしとけよ」
「もう、した。ありがとう」
「昼、外出する?」
「今日は会社にいる」
「わかった。……水、いる?」
「うん」
紙コップが差し出される。小さな動作が、体温を戻す。
十時、会議室D。臨時の“危機対応スタンドアップ”。七海が短く状況を切る。
「拡散は“会社外→会社内”の順。外部まとめの一次ソースは“昨夜のフリー”。社内の転載は監視で落としていく。匿名は広報チームで受け止める。——佐伯さん」
「はい」
「安全上の導線、今日から一週間、変更する。入退館は裏のゲート。帰宅は秘書室のルートで。許可、もらえる?」
干渉しない約束が頭をよぎる。けれど、息がひとつ、自然に整っていた。
「許可します」
「ありがとう。河野、詳細送って」
「はい」
七海は続けた。
「“婚約者は偽装”の文言は否定も肯定もしない。社内向けには“人権尊重と情報共有の線引き”で統一。感情に反応するな。——蓮は?」
ドアが開き、彼が入ってきた。視線が一瞬だけ私に触れ、会議の温度に合わさる。
「午後、社内タウンホールを開く。十分だけ。——“誰にどんな配慮が必要か”だけを話す。個人情報は語らない」
「賛成」
七海がうなずく。「“噂の温度”は一気に冷やすより、吹きこぼれないよう弱火で。——そのための十分」
私は手元のペンを握り直した。輪郭。輪郭。
昼前、匿名のDMが弾む。
『バルコニーで寄り添ってたの、見た。“彼女”はスタッフだよね? 名前、知ってる』
削除。七海へ転送。受信の手順は身体に落ちている。
同時に、知らない差出人からの優しいメッセージも届いた。
『社内の雰囲気がちょっとザワついてますが、応援してます。匿名でごめんなさい』
その匿名だけは、削除しないで閉じた。
白茶の香りを深く吸って、午後へ進む。
正午、ラウンジ。いつものように水を受け取る。視線がこちらへ寄っては離れ、噂の粒が空中を漂う。
七海が壁際で端末を構え、こちらに近づくと、声を落とした。
「“火”が少し強い。午後の十分、重要になる」
「はい」
「それと——」
七海は目を細め、私の表情を一瞬だけ測る。「彼の結び目は、今日は私が触らない」
胸のどこかが、ゆっくりほどけた。
午後三時、タウンホール。大部屋のスクリーンに、会社の行動規範が映る。
彼はゆっくりと歩調を合わせて壇上へ上がり、短く話し始めた。
「合併の最終局面で、皆に負荷がかかっている。噂は、緊張の出口になりうる。だが、誰かの生活に踏み込むことは、仕事ではない」
声は抑えていて、柔らかい。
私は後方の椅子で、指輪の内側の“W.T.”を親指でなぞる。
「会社は会社を守る。だが、それと同じだけ、会社は“人”を守る。——それは順序ではなく、同時だ」
スクリーンに“人権尊重/個人情報/社内コミュニケーションの原則”が並ぶ。
彼は最後に一言だけ足した。
「誰かが怖いときは、怖いと言ってほしい。守る手は、こちらにある」
拍手は小さく、長く続いた。温度が少し下がった気がした。
終了後、七海が素早くチャンネルにまとめを投下する。法務の文言、通報窓口、転載禁止、連絡経路。
私はモニタを閉じ、深く息を吐いた。
夕方、コピー機の前で紙詰まり。腕まくりし、手を入れる。ふいに背後で囁き声がした。
「PRの七海さんと付き合ってたって、ほんと?」
「だってネクタイ、何度も直してるじゃん。婚約者は“守るため”のカモフラって」
「じゃ、相手は……総務の、佐——」
紙の音をわざと大きくした。二人は慌てて沈黙し、足音を急がせる。
ローラーから紙を抜きながら、私は左手の輪を確かめた。
——怖い、と言っていい。
喉の奥で言葉が形になり、私は振り返る。
「さっきの話、私が聞いていました。社内フォトログの解釈や個人名の推測は、やめてください。広報の文面を読んでください」
二人は目を丸くし、浅く会釈して去っていく。手が少し震えた。震えは止まらないけれど、輪郭は崩れない。
そこへ、桜庭の声。
「大丈夫?」
「……大丈夫。怖いって、言えた」
「えらい」
短い言葉が、背中に置かれる。体温は戻る。
定時少し前、七海からダイレクト。
『温度、下がり始めた。よく立ってたね。——帰りの導線、変更なし。裏ゲートで』
『了解しました』
帰り支度をして席を立つと、机に小さな封筒が置かれていた。差出人は経営企画の女性。昼の“いいルール”の人。
中には付箋が一枚。
『“痛い時は外す”拝借しました。ありがとう。——あなたの輪郭、会社で守ります』
喉の奥が熱くなる。封筒を胸ポケットにしまい、白茶の香りで呼吸を整える。
裏ゲートまでの廊下は静かだった。角を曲がると、彼が立っている。視線で合図だけ交わす。
近づかない。触れない。
彼は私と同じ歩幅で、出口の少し手前まで並んで歩き、ドアが開く風が来たところで、短く言った。
「怖いときは、怖いと言えた?」
「言えました」
「よかった」
「……タウンホール、ありがとうございました」
「こちらこそ。——夜、いつもの一行を」
「はい」
互いに一礼だけして、離れる。
外気は、昼より少し冷たい。
駅までの道、スマホが震えた。差出人不明。
『駅はあっちじゃないの?』
足がすくみかけて、止めた。
深呼吸。七海に転送。“無視&保全”。秘書室のルートをなぞる。
五分後、河野から返信。
『裏手のカメラに一名。警備が対応しました。——そのまま真っ直ぐ駅へ』
『ありがとうございます』
ホームに着く。電車が滑り込み、ドアが開く。車内の蛍光灯に、指輪が小さく光る。
息がゆっくり落ち着いていく。
帰宅して灯りを点けると、すぐに“一行”が届いた。
『W.T. 今日も輪郭は君のもの?』
笑ってしまう。私は短く返した。
『W.T. はい。少し震えましたが、輪郭は保ちました』
『Good. 震える手は、守る手と両立する』
『覚えておきます』
画面を伏せ、指輪を外す。内側の“W.T.”を目でなぞる。
シャワーの湯気の中で、今日の温度が少しずつ溶ける。
ベッドに入る前、もう一度スマホが震えた。
彼からではない。七海でも、桜庭でもない。
見知らぬアドレスから、一行。
『ご令嬢、じゃない君へ——強く立って。味方は多いよ』
削除はしない。転送もしない。
ただ、胸ポケットの封筒と同じ場所に、その一行を置いた気持ちで、私は目を閉じた。
——火は、まだ消えない。けれど、鍋は吹きこぼれていない。
弱火を保つ手が、今日は確かにあったのだと、思いながら。