明治恋奇譚 〜藤堂様、ミエテマスヨ!~

玲子様、気をつけて!

 輝明はゆるやかに扇を閉じ、わざとらしく肩の力を抜いて見せた。

「まあまあ、皆の衆。ここは、一服置いて、冷静に話をしようではないか」

 そう言いながら、控えていた女中に目配せをする。すぐに湯気の立つ茶碗が卓に並べられた。

 玲子の前にも、淡い湯気を立てる湯飲みが置かれる。
 その瞬間、輝明の視線がほんの一瞬だけ、そこに落ちた。
 茶の表面に、黒い靄のようなものが、ふわりと掛かるのを見た玲子は息を飲み込んだ。
 他の誰にも見えぬそれは、あまりに明瞭だった。

(……これは……!)

 喉の渇きに唇が震える。だが、茶碗へ手を伸ばすことはできない。
 胸の奥で強く警鐘が鳴り響いていた。

『飲むでないぞ、玲子殿』
 一将の声が鋭く響く。
『あれは悪しきものが纏わりついておる。口にすれば魂まで侵される』

 玲子は震える手を膝の上で握りしめ、必死に顔色を保った。

 一方、輝明は穏やかな笑みを崩さず、柔らかく勧める。

「どうしたね? 遠慮することはない。喉も渇いているだろうに」

 その声音はまるで親切心の塊のよう。
 だが、黒い靄をまとった茶碗が玲子の前にあるかぎり、その優しさは恐怖にしかならなかった。

 玲子の前に置かれた湯飲みから、黒い靄が立ちのぼっている。
 その正体を知るのは、玲子ただひとり。
 必死に平静を装っていたが、血の気が引くのを将吾は見逃さなかった。
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