明治恋奇譚 〜藤堂様、ミエテマスヨ!~

月が浮かんでいた



 その夜。

 自宅に戻った尚文は庭にある池の淵に佇んでいた。
 水面は月光に淡く照らされ、植え込みの影が細く伸びている。
 尚文は一人、音を立てぬように石畳の上をゆっくりと歩いていた。

 喧騒もない。言葉もない。ただ、虫の声と風の音だけが、夜の静けさを満たしていた。

 ふと、足を止める。
 見上げた空に、雲ひとつない満月が浮かんでいた。

 (君が誰を見ていたかなんて、わかっていたさ……)

 心の中でつぶやいた言葉は、どこか遠くへ溶けていった。
 涙は出なかった。ただ、胸の奥がきゅうっと締めつけられるような痛みだけが、確かにそこにあった。

 けれど、後悔はなかった。
 恋は実らなくとも、彼女を想う気持ちは、間違いではなかったはずだから。

 「……玲子君が、笑っていられるのなら」

 そっと、木々の向こうの離れを見やる。
 あの窓の向こうに、今もあの笑顔があることを願いながら。

 尚文は、そっと目を伏せ、息を吐いた。

 「……ああ、僕はやっぱり……」

 言葉の続きは、風に消えた。

 静かに踵を返し、庭の奥へと歩き出す尚文の背は、どこか清々しくもあり、ほんの少し、寂しげでもあった。
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