明治恋奇譚 〜藤堂様、ミエテマスヨ!~

玲子様、挨拶にに行きます

 将輝が席を立ち、静かに襖の向こうへ消えていったあと、応接の間には深い沈黙が流れた。

 張り詰めていた糸が緩んだ瞬間だった。

 玲子はその場で、ぴたりと頭を下げたまま、しばらく動けなかった。

「……玲子」

 将吾の穏やかな声が、そっと空気を揺らした。

 玲子は小さく首を振るようにして顔を上げた。まつ毛に溜まった涙が、一筋、頬を伝って落ちていく。

「あ……」

 それを慌てて指の背で拭おうとしたが、手は微かに震えていた。

「すみません……わたくし、緊張してしまって……泣いたりして、情けないですよね」

「情けないなんて思わない。よく頑張ったな」

 将吾がすっと手を伸ばし、玲子の震える手を、そっと包み込むように握った。

 その手のひらの温かさが、玲子の胸の奥の、凍りついていた場所を静かに溶かしていく。

「君がここまで歩んできた道のりを、誰よりもよく知っている。……君の言葉が、父を動かしたんだ。俺には、それが誇らしい」

 玲子は、こくんと小さく頷いた。言葉はもう、必要なかった。

 春の陽光が障子越しに淡く差し込んでいる。

 手と手を重ねたままのふたりは、しばし、誰にも邪魔されない静かな時間の中にいた。
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