明治恋奇譚 〜藤堂様、ミエテマスヨ!~

玲子様、呼び出されます

 翌朝、玲子は自室の窓を大きく開け放った。
 榊原家の離れにある小さな庭は、誰も立ち寄らない、玲子だけの憩いの場。
 ふわりと優しい香りが漂い、見上げれば、白いマグノリアの花がひっそりと咲いていた。
 気高く優雅なその花の花言葉には、「自然への愛」、そして意外にも「忍耐」が含まれている。
 幼い頃、母の膝に抱かれ白い花を見上げた。幸せな記憶が、今の玲子を支えていた。

「うーん、いいお天気になったわ。今日はお掃除をしましょう」

 縞模様の小紋に袖を通し、タスキを掛けた玲子は、掃除用具を取り出す。
 その着物は、母の千佳子が愛用していたもので、新しい着物を買ってもらえない玲子にとっては、母のぬくもりを感じられる数少ない品のひとつだった。

 玲子の父・榊原隆之は、千賀子の美しさに心を奪われ、既に妻子がありながらも、東京へと彼女を連れ帰った。
 そしてこの離れの部屋を与え、お妾として暮らさせた。
 やがて玲子が生まれ、ささやかながらも、家族としての穏やかな日々が始まった。

 千賀子は、控えめで温かな人柄の女性だったという。
 贅沢は好まず、庭に咲く草花を愛し、狭い部屋を丁寧に整えて暮らしていた。
 そんな母の姿は、幼い玲子の記憶にぼんやりと残っている。
 母が縫ってくれた人形の着物、夕暮れに縁側で聞いた子守唄。
 どれも遠い記憶ながら、今でも色褪せずに胸の奥で灯っていた。

 けれど、玲子が五つの頃。
 千賀子は、ある日突然、何の前触れもなく姿を消した。
 身の回りの物はそのままに残されており、不自然な失踪だった。
 だが後に父から「千賀子は、中村という男と駆け落ちした」と告げられ、それ以上、尋ねることは許されなかった。
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