明治恋奇譚 〜藤堂様、ミエテマスヨ!~

玲子様、ため息がでます

 ふわりと、玲子の背中を押すように優しい風が吹いた。

「……お気遣いありがとうございます。ごきげんよう」

『さいなら〜。アンタ、アタイの分まで美味しいもん食べて、生きて、生き抜くんだよ〜』

 女の幽霊が大きく手を振る。
 玲子も人目をはばかることなく、精一杯手を振り返した。
 ……とは言え、どこへ行けばいいのだろう?
 間もなく日が沈む。
 暗くなってからの女の一人歩きは、あまりにも危険だ。
 玲子は、小さく息を吐いた。
 ほんの少しだけ前を向けた気がしたが、今は足元さえもおぼつかない。
 諦めたように大きく肩を落とし、そっと踵を返す。
 足が向いた先は、やはり、榊原の家にある離れだった。
 

 日が沈み、茜色だった空は宵闇に変わり、満月が静かに顔を出す。
 暮六つの時刻を告げる寺の鐘が、ゴーンと響く。
 夜が深まるにつれ、町行く人々の足は早まり、淡いガス灯の明かりが石畳にゆらめく影を落とす。
 この時間に町を歩くのは、玲子にとって初めてのことだった。

 そのせいか、胸の奥にぽつりと不安が灯り、心細さが、じわじわと広がっていく。
 ふと、視線を路地へと向ければ、人型の黒い影が、ゆっくりと手招きしていた。
 それは、《《悪しきモノ》》。

 関われば、毒のように神経を蝕み、闇へと連れ込もうとする存在だ。
 こういう時は、視線を逸らしてやり過ごすのが一番。
 玲子はそっと顔を背けた。
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