すれ違いの果てに見つけた愛

第一章:冷たい寝室


 深夜零時をまわった頃、広すぎる邸宅は、息を潜めたように静まり返っていた。
 壁にかかったアンティークの時計が、ひとつ、またひとつと規則正しく時を刻む。その音さえ、やけに大きく響く。

 白い大理石の床に、私のヒールの音だけが乾いた調子で残る。
 結婚式を終え、披露宴を終え、誰もが「お似合いの二人」と微笑んでくれた日。
 それなのに、胸の奥は冷えきっていた。

「部屋は——さっき言った通りだ」

 リビングのソファに腰掛け、ワイングラスを傾けながら、翔は低い声で告げた。
 琥珀色の液体がグラスの中で静かに揺れ、柔らかなライトに照らされる。
 彼の横顔は、彫刻のように整っていて、いつ見ても息を呑むほど美しい。けれどそこに、私だけを映す眼差しはない。

「……ゲストルーム、ですね」

 笑顔をつくろうとしたけれど、声は震えていた。
 彼は頷くだけで、視線を戻さない。

「俺は仕事で遅くなる日も多い。……そっちのほうが気楽だろう」

「気楽、って……」

 思わず問い返してしまう。
 夫婦になったばかりの今夜、同じ部屋で眠らないことが「気楽」だなんて。
 喉がつまって、言葉が出ない。

「翔さん……私、あなたと——」

 言いかけた瞬間、彼の長い指がグラスを置いた。
 氷のように冷えた眼差しが私に向けられる。

「杏里。……俺に感情を求めるな」

 胸を刺すような一言だった。
 思わず息を呑み、背筋が震える。

「感情を……求めるな……?」

 翔は短く頷いた。
「俺たちの結婚は“契約”だ。形式がすべてだ。……余計な感情を持ち込めば、互いに傷つくだけだ」

 頭では理解できる。西園寺家と私の実家との結びつきが、どれほど大きな意味を持つかは知っていた。
 けれど——。

「……私は、契約だけで終わらせたいと思ってません」

 勇気を振り絞って告げると、翔の眉がわずかに動いた。
「お前は甘い。……理想を夢見るな」

 それだけ言うと、彼は立ち上がった。
 背広のジャケットが肩に沿って揺れ、広い背中が遠ざかっていく。
 廊下に続く扉の前で、彼は一度も振り返らなかった。

 ——静寂。
 残された私は、ただ立ち尽くす。

 ワインの残り香だけが、まだ空気に漂っていた。



 ゲストルームは、豪奢ではあったけれど、どこかよそよそしい。
 真っ白なシーツ。薄藍のカーテン。窓辺にはアネモネの花。
 美しく整えられすぎていて、誰の気配もない。

 私はベッドに腰を下ろし、ヴェールを外したときのことを思い出す。
 ——あの冷たい口づけ。
 夢に見てきた結婚式のはずなのに、温度のない唇だった。

(私は……何を期待していたんだろう)

 子どもの頃からずっと、翔を慕っていた。
 背中を追いかけ、声を聞くだけで胸が高鳴った。
 それが結婚に結びついたとき、私は信じたのだ。きっと彼も同じ思いだと。

 けれど現実は違った。
 彼にとって私は、家の名誉を守るための妻。ただ、それだけ。

「……寂しい」

 小さく呟いた声が、部屋の中で反響する。
 涙をこらえたけれど、頬は熱く濡れていく。



 翌朝。
 鳥のさえずりがカーテンの隙間から差し込む光に混じって聞こえてくる。
 私はベッドの端に座ったまま、一睡もできなかった。

 ふと廊下から足音が響いた。
 扉の前で立ち止まる気配——。
 息をひそめる。

 だがノックはなく、足音は遠ざかっていった。

 胸の奥が、きしむように痛い。
(私の存在なんて、翔さんには必要ないの?)

 そう思った瞬間、心が冷えていくのを感じた。

 結婚生活の始まりは、夢に描いた温もりではなく、凍りつくような孤独だった。
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