すれ違いの果てに見つけた愛
第二章:すれ違う会話
朝の光は眩しいほど柔らかく、窓辺のアネモネの花弁を透かしていた。
私は食堂の長いテーブルに腰を下ろし、置かれたカップの湯気を見つめていた。
白磁のカップから立ち上る香りは確かに上等なものなのに、胸の奥は重く沈んでいる。
「おはようございます、翔さん」
勇気を振り絞って声をかけた。
けれど彼は新聞から視線を外さず、ただ低く返した。
「ああ」
短い返事。
広すぎるテーブルに、ふたりきり。距離が遠すぎて、言葉まで届かないようだった。
「今日は……お仕事、早いんですか?」
問いかけてみる。
新聞をめくる音が、無機質に響いた。
「午前中に会議がある。午後は出張だ」
「そう、なんですね……」
沈黙。
私はフォークを手にしたけれど、ナイフの刃先に映る自分の顔が心細く見えて、思わず視線を落とした。
(どうして……こんなにも距離があるの)
午前八時。
彼は黒いスーツに着替え、玄関へ向かっていた。
私は慌てて追いかける。
「翔さん!」
振り返った彼の瞳は冷静そのもので、期待した温度はなかった。
「なにか」
「……いってらっしゃいませ」
言った瞬間、自分でも馬鹿みたいだと思った。
夫にかける、ごく当たり前の言葉なのに。
その当たり前さえ、彼にとっては煩わしいのだろうか。
翔は小さく頷いただけで、長い足取りで外へ出て行った。
扉の閉まる音が、やけに重く響く。
(どうして私たち、夫婦なのに——)
唇を噛む。喉の奥が熱くなった。
昼下がり。
私は一人きりで屋敷の広い庭を歩いていた。
季節の花々が丁寧に手入れされて咲き誇っているのに、心は晴れなかった。
庭師が会釈して通り過ぎる。
笑顔で返すけれど、胸の奥は空っぽだ。
(もし、私がいなくなっても……この家は何も変わらないのかもしれない)
そんな思いが胸をよぎり、足元の芝生が急に遠く感じた。
夜。
ようやく戻ってきた翔を、私は食堂で待っていた。
時計の針は十時を指している。
テーブルの上には、私が用意した料理が並んでいた。
「翔さん。お帰りなさいませ」
少しでも温かな空気を作ろうと、私は努めて明るく笑った。
だが彼は視線を落とし、ネクタイを緩めただけだった。
「……食事は済ませた」
「え……」
声がかすれる。
料理はすっかり冷めていたけれど、それでも彼に食べてほしかった。
私が妻である証を、ほんの少しでも欲しかった。
「なら……せめて、一緒にお茶だけでも」
必死にすがるような声になってしまう。
彼の眉がかすかに動いた。
「杏里。……お前は無理をするな」
「無理なんてしてません。ただ——」
「いい加減にしろ」
低い声が鋭く響いた。
息が止まりそうになる。
翔は苦しげに目を伏せ、しばし沈黙した。
「……お前に情をかければ、甘えさせるだけになる」
「甘え……?」
私は震える声で繰り返す。
どうしてこんなにも突き放すのだろう。
「俺は西園寺家を背負っている。感情に流されれば、すべてが崩れる」
理屈はわかる。彼がどれほどの責任を抱えているのかも知っている。
けれど、それでも。
「翔さん……私は、ただ、夫婦らしく——」
言葉が途中で途切れた。
彼の冷たい瞳が、私を射抜いていたから。
「……寝ろ」
短くそれだけ言い残し、彼は再び背を向けて歩き出した。
背中が遠ざかっていく。
扉が閉まり、また広い食堂にひとりきり。
テーブルの上の皿が、悲しくも虚しく光っていた。
寝室に戻った私は、シーツの端に腰を下ろし、両手を強く握りしめた。
涙をこらえても、胸の奥の痛みは隠せない。
(どうして、私の声は届かないの? どうして、翔さんは私を見てくれないの?)
答えのない問いが、夜の闇に溶けていった。
すれ違いは、この日を境に、少しずつ深まっていった。