すれ違いの果てに見つけた愛
第四章:涙の逃避行
夜の帳が下りた西園寺家の邸宅は、しんと静まり返っていた。
月明かりが窓から差し込み、白い大理石の床に長い影を落とす。
その中で私は、小さなキャリーケースを握りしめていた。
(もう、これ以上は耐えられない……)
麻衣の姿、翔の冷たい視線、突き放すような言葉。
思い出すたびに胸がえぐられるように痛んだ。
このままここにいても、私の心は壊れてしまう。
夕食の席。
私は最後の望みをかけるように、彼に話しかけていた。
「翔さん……少しでいいから、話を聞いてもらえませんか?」
ナイフを置いた彼が、不快そうに眉を寄せる。
「……今は疲れている」
「でも、私——」
「杏里」
低く名前を呼ばれた瞬間、身体が震えた。
その声には、突き放すような冷たさがあった。
「何度言えばわかる。俺に感情を求めるな。……それがお前にとって一番楽なはずだ」
「……楽?」
思わず笑いがこぼれた。乾いた、苦しい笑いだった。
「私、翔さんと一緒にいるのが夢だったんです。小さい頃からずっと……。楽なんかじゃない。苦しくても、悲しくても、一緒にいたかったんです」
震える声で吐き出すと、翔の瞳が一瞬だけ揺れた。
けれど彼はすぐに顔を逸らし、ワイングラスを手に取った。
「——もうやめろ。子どもの幻想を持ち込むな」
カランとグラスが鳴る音が、私の心を砕いた。
深夜。
ベッドに横たわっても眠れず、ただ天井を見つめていた。
涙はとっくに枯れて、乾いたまぶたが熱い。
(このままここにいたら、私は……消えてしまう)
そんな思いが頭をよぎる。
気づけば体は勝手に動いていた。
クローゼットを開け、小さなバッグに最低限の荷物を詰め込む。
ドレスも宝石もいらない。必要なのは、ここを離れるための勇気だけだった。
書斎に置いてあった離婚届を机の上にそっと置く。
震える指先でペンを走らせるたび、心臓が軋む。
(ごめんなさい……翔さん。本当は、あなたを愛したかった)
涙の跡が紙に滲む。
玄関へ向かう途中、背後から声がした。
「杏里」
心臓が跳ねた。
振り返ると、そこに翔が立っていた。
寝室にいるはずの彼が、どうして——。
「……どこへ行く」
低い声。冷たいはずなのに、どこか抑え込んだ焦りが混じっていた。
「……ごめんなさい。私、もう無理なんです」
キャリーを握る手に力がこもる。
翔が数歩近づく。影が私を覆った。
「勝手に出て行く気か」
「勝手に……じゃないです。置いていきますから」
震える手で、離婚届を差し出した。
彼の瞳が鋭く光り、それを受け取る。
一瞬、指先が触れ合った。冷たいはずのその感触が、妙に熱く感じられて、胸が痛む。
「杏里……」
低く名前を呼ぶ声。
それは引き止めるようで、突き放すようでもあった。
「翔さん……。私のこと、少しでも思ってくれたこと、ありますか?」
沈黙。
返事はなかった。
その沈黙が、何よりも答えだった。
私は涙を拭き、微笑んだ。
「……さよなら」
ドアノブに手をかけ、重たい扉を押し開ける。
夜風が頬を打ち、自由と孤独の匂いが広がった。
私は一歩、外へ踏み出した。
タクシーの窓から見える街並みが、滲んで揺れる。
ビルの灯りも、街路樹も、見慣れた景色なのに、どこか遠い。
(これで……よかったんだよね)
心に言い聞かせるけれど、涙は止まらなかった。
愛していた人から逃げることが、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
でも、このままでは生きていけない。
私は必死に唇を噛み、涙を隠した。
——こうして私は、翔のもとから逃げ出した。
愛を信じきれないまま、ただ心を守るために
月明かりが窓から差し込み、白い大理石の床に長い影を落とす。
その中で私は、小さなキャリーケースを握りしめていた。
(もう、これ以上は耐えられない……)
麻衣の姿、翔の冷たい視線、突き放すような言葉。
思い出すたびに胸がえぐられるように痛んだ。
このままここにいても、私の心は壊れてしまう。
夕食の席。
私は最後の望みをかけるように、彼に話しかけていた。
「翔さん……少しでいいから、話を聞いてもらえませんか?」
ナイフを置いた彼が、不快そうに眉を寄せる。
「……今は疲れている」
「でも、私——」
「杏里」
低く名前を呼ばれた瞬間、身体が震えた。
その声には、突き放すような冷たさがあった。
「何度言えばわかる。俺に感情を求めるな。……それがお前にとって一番楽なはずだ」
「……楽?」
思わず笑いがこぼれた。乾いた、苦しい笑いだった。
「私、翔さんと一緒にいるのが夢だったんです。小さい頃からずっと……。楽なんかじゃない。苦しくても、悲しくても、一緒にいたかったんです」
震える声で吐き出すと、翔の瞳が一瞬だけ揺れた。
けれど彼はすぐに顔を逸らし、ワイングラスを手に取った。
「——もうやめろ。子どもの幻想を持ち込むな」
カランとグラスが鳴る音が、私の心を砕いた。
深夜。
ベッドに横たわっても眠れず、ただ天井を見つめていた。
涙はとっくに枯れて、乾いたまぶたが熱い。
(このままここにいたら、私は……消えてしまう)
そんな思いが頭をよぎる。
気づけば体は勝手に動いていた。
クローゼットを開け、小さなバッグに最低限の荷物を詰め込む。
ドレスも宝石もいらない。必要なのは、ここを離れるための勇気だけだった。
書斎に置いてあった離婚届を机の上にそっと置く。
震える指先でペンを走らせるたび、心臓が軋む。
(ごめんなさい……翔さん。本当は、あなたを愛したかった)
涙の跡が紙に滲む。
玄関へ向かう途中、背後から声がした。
「杏里」
心臓が跳ねた。
振り返ると、そこに翔が立っていた。
寝室にいるはずの彼が、どうして——。
「……どこへ行く」
低い声。冷たいはずなのに、どこか抑え込んだ焦りが混じっていた。
「……ごめんなさい。私、もう無理なんです」
キャリーを握る手に力がこもる。
翔が数歩近づく。影が私を覆った。
「勝手に出て行く気か」
「勝手に……じゃないです。置いていきますから」
震える手で、離婚届を差し出した。
彼の瞳が鋭く光り、それを受け取る。
一瞬、指先が触れ合った。冷たいはずのその感触が、妙に熱く感じられて、胸が痛む。
「杏里……」
低く名前を呼ぶ声。
それは引き止めるようで、突き放すようでもあった。
「翔さん……。私のこと、少しでも思ってくれたこと、ありますか?」
沈黙。
返事はなかった。
その沈黙が、何よりも答えだった。
私は涙を拭き、微笑んだ。
「……さよなら」
ドアノブに手をかけ、重たい扉を押し開ける。
夜風が頬を打ち、自由と孤独の匂いが広がった。
私は一歩、外へ踏み出した。
タクシーの窓から見える街並みが、滲んで揺れる。
ビルの灯りも、街路樹も、見慣れた景色なのに、どこか遠い。
(これで……よかったんだよね)
心に言い聞かせるけれど、涙は止まらなかった。
愛していた人から逃げることが、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
でも、このままでは生きていけない。
私は必死に唇を噛み、涙を隠した。
——こうして私は、翔のもとから逃げ出した。
愛を信じきれないまま、ただ心を守るために