すれ違いの果てに見つけた愛
第五章:失踪後の街
夜明け前のターミナル駅。
早朝の空気は冷たく澄んで、まるで新しい世界の匂いを運んでくるようだった。
タクシーを降りた私は、小さなキャリーケースを握りしめ、人混みの中へと足を踏み出す。
(もう、あの家には戻れない……)
それでも、不思議と足取りは軽かった。
涙で重くなった心を抱えながらも、どこかで「これから」を探そうとしている自分がいた。
数日後。
私は地方都市の小さな街に身を移していた。
西園寺の名が響かない場所。高層ビルもブランド店もなく、代わりに人々の声と商店街の呼び込みが行き交う、穏やかな街並み。
アパートの一室を借り、最低限の家具を置いた。
狭いけれど、そこには確かに「自分の居場所」があった。
夜も、あの広すぎるゲストルームのように冷え切った孤独はなかった。
数週間後、私は商店街の小さなカフェでアルバイトを始めていた。
木の香りがする温かな店内。
朝は常連のサラリーマンが新聞を広げ、昼は主婦たちが楽しげに談笑する。
そんな場所に立って、エプロンを結ぶ自分の姿が、どこか新鮮だった。
「杏里ちゃん、ラテ二つお願い!」
カウンターの向こうから店長の明るい声が飛んでくる。
小柄で人懐っこい女性で、初日から私を気にかけてくれた。
「はい、すぐお持ちします」
カップにミルクを注ぎながら、自然と笑顔になっている自分に気づく。
誰かのために淹れる一杯。
ただそれだけのことが、心を少しずつ温めていった。
休憩時間。
スタッフルームで水を飲んでいると、同僚の青年・悠真が声をかけてきた。
明るい茶色の瞳に、少し無邪気な笑みを浮かべている。
「杏里さんって、最初からこの街の人じゃないでしょ?」
「え……どうして?」
「なんとなく。仕草が上品だし、言葉遣いも丁寧だし。……もしかして、お嬢様?」
「ち、違うわ」
慌てて否定する。
心臓が跳ねた。もし過去が知られたら——。
悠真は肩をすくめて笑った。
「冗談だよ。ま、どんな人でも、この店に来たら仲間だから」
その気さくな言葉に、胸がじんと温かくなった。
(ここでは、私の名前も、過去も知られていない……)
私は小さく微笑み返した。
仕事を終えてアパートに戻ると、窓から差し込む夕陽が部屋を赤く染めていた。
床に座り込み、差し込む光を見つめる。
——翔の顔が浮かぶ。
冷たい声、背中を向ける姿。
でも、ふとした瞬間に見せた揺らぎも、思い出してしまう。
「……忘れなきゃ」
唇を噛む。
翔のことを想えば想うほど、心は揺れる。
でも、私はもう戻らないと決めたのだ。
テーブルの上には、店長が渡してくれたシフト表が置かれている。
そこに自分の名前が記されているだけで、胸の奥が少し満たされる。
(ここで、新しい人生を始めるんだ)
そう自分に言い聞かせ、目を閉じた。
翌日。
カフェの扉を開けた瞬間、コーヒー豆の香ばしい香りに包まれる。
その香りが「生きている実感」をくれる。
「杏里ちゃん、おはよう!」
店長が手を振る。
「今日もよろしくね」
「はい!」
声が少し弾んでいた。
翔に聞かれたら「軽率だ」と叱られるだろう。
でも、ここでは誰も私を縛らない。
——自由。
その甘美さに、胸が少しだけ救われる。
(私は翔さんの妻じゃない。ただの私……それでいい)
それでも。
夜、一人になるとき。窓の外に広がる街灯りを眺めていると、どうしても心に影が差すのだった。
(翔さんは、今、何をしているんだろう……)
答えのない問いが、胸の奥に残り続けていた