すれ違いの果てに見つけた愛

第六章:離婚成立

 初夏の風が商店街を吹き抜ける。
 看板の揺れる音、パン屋から漂う甘い香り、子どもたちのはしゃぐ声。
 そのざわめきの中で、私はカフェの前に立っていた。

「杏里ちゃん、お客さん来てるよ」

 店長が顔を出し、私を手招きした。
 振り返ると、スーツ姿の男性がカウンター席に座っている。
 冷たい眼鏡の奥から、鋭い光を放つ瞳。どこか見覚えがある。

 胸がざわつく。
(……西園寺家の人間?)

 鼓動が早まる中、私は意を決して近づいた。



「水瀬杏里様でいらっしゃいますね」

 男性は淡々とした声で切り出した。
 背筋の通ったその姿勢に、私は小さく頷く。

「西園寺家の法務を担当しております、榊原と申します」

 心臓がぎゅっと縮む。
 やはり……。
 ここまで追ってきたのかと、恐怖と緊張が入り混じる。

「——離婚が、正式に成立いたしました」

 静かな言葉が、耳に落ちる。
 一瞬、周囲のざわめきが遠のいた気がした。
 頭の中が真っ白になる。

「……成立?」

「はい。本日をもって、あなたと西園寺翔様の婚姻関係は解消されました。これが証書でございます」

 差し出された封筒。
 震える手で受け取る。中には、見慣れた文字で記された判決文のような書面。
 正式な印が押されている。

「……これで、自由になれるんですね」

 声が震えていた。
 榊原は無表情のまま頷く。

「今後、西園寺家とは一切関わりを持つ必要はございません。ただし、契約上の機密事項については——」

「もう、わかりました。……十分です」

 遮るように答えた。
 これ以上、何も聞きたくなかった。



 榊原が去ったあと、私は小さな裏口から外へ出た。
 夕暮れの風が頬を撫でる。
 けれどその風は、自由の匂いではなく、どこか切なさを運んでいた。

(これで本当に、終わったんだ……)

 西園寺杏里ではなく、ただの「水瀬杏里」に戻った。
 望んでいたはずの解放。
 それなのに、胸の奥は痛みでいっぱいだった。



 夜。
 アパートに戻った私は、テーブルに書類を広げた。
 赤い判子の跡が、やけに重たく目に映る。

「……自由、ね」

 呟いた声が、狭い部屋に響く。
 涙はもう出なかった。泣き疲れてしまったのかもしれない。

 携帯電話の電源はずっと切ったまま。
 翔から連絡が来ることはないだろう。
 ——いや、きっと最初から彼は、私に何の感情も持っていなかった。

「私のことなんて、最初から……」

 ぽつりとこぼれた声が、静寂に溶けていく。

 けれど。
 窓辺に座って夜空を見上げると、どうしても思い出してしまう。
 結婚式のとき、白いヴェールを上げる彼の手。
 冷たいのに、確かに触れた温度。

(あれは……全部、幻だったの?)

 胸が締めつけられる。
 自由になったはずなのに、心はまだ翔の影から逃れられなかった。



 翌日。
 カフェに出勤すると、悠真がいつも通りの笑顔で迎えてくれた。

「おはよう、杏里さん。昨日、なんか疲れた顔してたけど……大丈夫?」

「ええ……大丈夫よ」

 笑顔を作る。
 誰にも知られたくない過去。
 けれど、こうして「普通の生活」に溶け込むことができるなら、それでいい。

「よかった。今日も頑張ろうな!」

 無邪気な笑顔に、ほんの少し救われる。
 翔の影を消すことはできなくても、新しい光がここにある。

(私は、もう振り返らない。——そう、決めたんだから)

 強く心に言い聞かせ、私はカウンターに立った。
 温かなコーヒーの香りに包まれながら。
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