すれ違いの果てに見つけた愛
第七章:再生の始まり
朝のカフェは、豆を挽く心地よい音と、カップが重なる小さな音で満ちていた。
窓から射し込む光が木のテーブルを照らし、柔らかい香ばしさが空気いっぱいに広がっている。
私はカウンターに立ちながら、ふと胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
(ここは、私の居場所だ……)
西園寺の豪奢な邸宅にはなかったもの。
ここには、人と人との自然なやりとりと、小さな笑顔がある。
「杏里さん、ラテお願い!」
店長の声に、私は「はい」と答えてカップを手にした。
スチームミルクを注ぎ、ハート模様を描く。
昔なら完璧にできなくて落ち込んだだろうけれど、今は少し崩れても、笑ってやり直せる。
「すごいなぁ。杏里さん、器用だよね」
隣で皿を拭いていた悠真が、感心したように覗き込む。
彼の明るい笑みが、胸にほんの小さな勇気を与えてくれる。
「そんなことないわ。まだ練習中よ」
「いやいや、俺がやると絶対に泡がぐしゃって潰れるんだ。やっぱりセンスだよ」
軽口を叩く彼に、思わず笑ってしまう。
笑うなんて、どれくらいぶりだろう。
翔と暮らしていたときには、一度も素直に笑えなかった気がする。
昼下がり、常連の老夫婦が入ってきた。
夫婦で向かい合ってゆっくりお茶を楽しむ姿は、穏やかな時間そのものだった。
私は二人のテーブルに紅茶を置きながら、心の奥でふと願ってしまう。
(私も……こんな風に寄り添える相手が欲しかった)
けれど、もう過去は変えられない。
翔への思いは心の奥にしまい込み、私は「ここ」で新しい日々を積み重ねるしかない。
閉店後。
店長が帳簿を閉じながら、私を見て微笑んだ。
「杏里ちゃん、もうすっかり店の顔になってきたわね」
「……そんな、まだ全然です」
照れながら否定する私に、店長は首を振った。
「ううん。本当に助かってるの。お客さんも、あなたの笑顔に癒されるって言ってるのよ」
「……笑顔、ですか」
その言葉が胸に沁みた。
かつて翔に向けた笑顔は、届かないまま消えていった。
でも今、私の笑顔を必要としてくれる人がいる。
それだけで心が少し救われる気がした。
帰り道、夜風が頬を撫でる。
商店街の灯りが柔らかく揺れて、都会の冷たいネオンとは違う温もりを感じさせた。
アパートに戻ると、小さな部屋が迎えてくれる。
狭いけれど、自分の選んだ空間。
テーブルの上には、常連のお客さんからいただいた焼き菓子が置かれていた。
「ありがとう……」
誰にともなく呟いた。
人の優しさが、今の私を支えている。
ベッドに腰を下ろすと、思いがけず翔の顔が浮かんだ。
冷たい瞳、突き放す言葉。
でもその奥に、一瞬だけ揺れた表情も忘れられない。
(——ダメよ。思い出しちゃ)
首を振り、涙を飲み込む。
翔を想うたび、心は引き裂かれる。
だから私は、ここで新しい私を作らなければならない。
翌朝。
カフェに出勤すると、悠真がドアを開けて待っていた。
「おはよう、杏里さん。今日もよろしく」
彼の笑顔に、胸の奥で小さな灯がともる。
翔の冷たい世界では手に入らなかった、ささやかな温もり。
それを大切にしようと、私は深く息を吸った。
(ここから……私は、もう一度始める)
静かな誓いを胸に抱き、私は店のカウンターに立った。