すれ違いの果てに見つけた愛

第八章:再会の予兆

カフェの朝はいつもと変わらないはずだった。
 エスプレッソマシンの蒸気が小さく弾け、店長の「おはよう」の声が響き、常連のお客さんが新聞を片手に席へ向かう。
 けれどその日、私はなぜか胸の奥が落ち着かなかった。

 カウンターに立つ手がわずかに震える。
 カップを並べる指先に力が入り、いつもなら描けるハート模様が少し歪んでしまう。

「杏里さん、今日なんか元気ない?」

 隣で皿を拭いていた悠真が、首を傾げる。
 彼の茶色の瞳が心配そうに揺れた。

「……そう、見える?」
「うん。なんか……胸がざわついてるみたいな顔」

 図星だった。
 私は曖昧に笑ってごまかした。

「大丈夫よ。ただ、ちょっと寝不足なだけ」

「そっか。でも、あんまり無理すんなよ」

 悠真の声は優しく、それだけで少し救われる。
 けれど胸の奥のざわめきは消えなかった。



 昼下がり。
 店長が私に一枚の書類を手渡した。

「杏里ちゃん、悪いけど、この伝票を近くの取引先まで届けてくれる? ほら、最近契約した西園寺グループの関連会社なんだけど……」

 心臓が止まりそうになった。

「……西園寺……?」

 声が震える。
 店長は気づかず、続けた。

「ええ。ここの取引でコーヒー豆を扱うことになったのよ。助かるわー」

 紙に印字された文字が視界を揺らす。
 西園寺グループ。
 かつて私を縛っていた名。
 そして、逃げ出した過去そのもの。

(どうして、よりによって……)

 足元が揺らぐような感覚に襲われた。
 けれど、断るわけにはいかない。
 ここで働いている以上、私は「ただの杏里」として役割を果たさなければ。

「……わかりました。届けてきます」

 かろうじて声を絞り出し、書類を受け取った。



 午後、私は封筒を抱えてオフィス街へ向かった。
 高層ビル群が立ち並び、ガラスに光が反射して眩しい。
 その中に、かつて何度も車で通り過ぎた建物があった。
 西園寺グループの関連会社——見覚えのあるロゴが、私を過去へ引き戻す。

 胸が強く締めつけられた。
 けれど、足を止めるわけにはいかない。
 受付で名前を告げると、事務的な笑顔で案内された。

「失礼します。こちら、伝票になります」

 担当者に封筒を手渡し、私は深く頭を下げた。
 それだけのやりとり。ほんの数分。

 なのに。
 オフィスの一角で見えた背中に、呼吸が止まった。

 黒いスーツに包まれた、広い肩幅。
 誰よりも見慣れていたはずの背中。

(——翔……?)

 心臓が跳ねる。
 思わず視線を逸らし、足早に出口へ向かう。

「杏里?」

 低い声が、背中を突き刺した。

 振り返る勇気はなかった。
 ただ、震える指先を握りしめ、エレベーターに飛び込む。
 ドアが閉まる直前、あの鋭い眼差しがこちらを射抜いた気がした。



 夜。
 アパートに戻っても、心臓の鼓動は収まらなかった。
 窓の外で街灯が揺れ、遠くで犬の鳴き声がする。
 すべてがいつも通りなのに、私の中だけがざわついている。

(見間違い……じゃない。あれは翔だった)

 四年ぶりに交わった視線。
 忘れたはずの鼓動が、鮮やかに蘇る。

「……どうして、今さら」

 涙がにじむ。
 離婚は成立した。
 私は新しい人生を歩み始めている。

 それなのに、どうして彼は、再び私の前に現れたのだろう。



 数日後。
 カフェの扉を開けると、見慣れぬ背中がそこにあった。
 黒いスーツ、端正な姿勢。
 振り返った瞬間、時間が止まった。

「やっぱり……ここにいたか」

 低く、確かな声。
 西園寺翔。

 四年の時を越えて、彼は再び私の前に現れた。

 胸が強く締めつけられる。
 逃げたいのに、足は動かない。
 私の再生は、まだ始まったばかりだった
< 9 / 22 >

この作品をシェア

pagetop