雨の温室に咲く約束

第九章「濡れた廊下の抱擁」

 その夜、久世ホールディングスの本社ビルは不意の停電に見舞われた。
 非常灯だけが点滅する廊下は、闇に沈んだ舞台のようにひっそりとしている。
 雨のせいか、窓ガラスには無数の水滴が走り、遠くの街灯が滲んで揺れていた。

 皐月はコピー資料を抱え、非常階段へと急いだ。
 蛍光灯が消えたオフィスは不気味に広く、足音がやけに大きく響く。
 心臓が速く脈打ち、喉が乾く。

 ——早く帰らなきゃ。

 そう思った瞬間、背後で足音が重なった。

「皐月」

 低い声に、身体が強張る。
 振り返ると、暗がりの中で玲臣が立っていた。
 非常灯の青白い光に照らされたその姿は、影をまとったように鋭い。

「副社長……」
「こんなときに、ひとりで歩くな」

 言いながら、彼は早足で近づく。
 皐月は数歩あとずさり、背中が壁に当たった。
 逃げ場はない。

「……どうして避ける」
「避けてなんて……」
「嘘だ」

 玲臣の腕が伸び、肩を掴む。
 熱が伝わってきて、皐月の心臓が跳ね上がった。

「俺は、何をした? 理由を言え」
「……言えません」
「なぜ」
「あなたを……守りたいから」

 かすれた声。
 玲臣の眉が寄る。

「守る? それで距離を置くのか」
「ええ……そうです」

 強がるように答えた瞬間、玲臣は彼女をぐっと引き寄せた。

 胸板に押しつけられるように抱きしめられ、息が詰まる。
 雨の匂いとスーツの香りが混じり合い、全身が熱に包まれる。

「俺は守られる立場じゃない。——お前を守る側だ」

 囁きは低く、耳の奥まで響いた。
 皐月の手から資料が滑り落ち、床に散らばった。

「……だめです」
「なぜだ」
「私では、あなたを幸せにできないから」

 震える声に、玲臣の瞳が怒りとも悲しみともつかない色を宿す。
 抱き締める腕の力が強くなった。

「勝手に決めるな。俺の幸せは、俺が決める」

 暗い廊下に響いた言葉に、皐月の胸が大きく揺れた。
 けれど同時に、玲奈の声が脳裏で蘇る。

「彼には、ずっと好きな人がいるの」

 涙が込み上げ、皐月は必死に首を振った。

「……ごめんなさい」

 玲臣の胸を押して、一歩後ずさる。
 彼の腕が空を切り、非常灯の下で影が揺れた。

「皐月……!」
「行かなくては」

 駆け出したヒールの音が廊下に響く。
 残された玲臣は拳を固く握り、暗闇の中で息を荒げた。

 雨音が窓を叩き続けていた。
 二人の距離を隔てるように。
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