雨の温室に咲く約束
第一章「避ける朝」
朝の光はまだやわらかく、都心のビル街を淡く照らしていた。
遠野皐月は白いブラウスに紺のタイトスカートを身につけ、鏡の前で深く息を吐いた。
胸の奥が重い。
昨夜、玲奈から告げられた言葉がずっと頭を離れない。
「玲臣には、ずっと好きな人がいるの。悩んでいるのよ……あなたと別れるべきかどうか」
それを口にした玲奈の表情は、親友らしい心配を装っていた。だからこそ、皐月は疑うことをしなかった。
——彼には、私以外に想う人がいる。
そう思った瞬間、心臓の鼓動が痛みを伴って響いた。
幼い頃の指切りの記憶さえ、淡い幻のように霞んでしまう。
皐月はスカーフをきつく巻き直し、玄関の扉を開いた。
久世ホールディングス本社。
玲臣が副社長を務める超高層ビルの前で、皐月は少し立ち止まった。
出勤時間を、わざとずらした。
これまでは玲臣と同じタイミングでビルに入り、何気ない会話を交わすのが習慣だった。
けれど今日からは、できるだけ会わないようにしよう。
胸の奥で小さな痛みを抱えながら、皐月は人の波に紛れてカードキーをかざした。
会議室の前。
玲臣は既に到着していた。黒のスーツに身を包み、資料を読み込む姿はどこか凛々しく、周囲の社員の視線を集めている。
皐月は心臓を握られたように足を止めた。
視線が交わる前に、彼の背中を避けて隅の席へ向かう。
「……皐月」
低く、よく通る声が呼んだ。
逃げられなかった。
皐月は振り返り、作り笑いを浮かべる。
「おはようございます、副社長」
形式ばった言葉に、玲臣の眉がわずかに動いた。
これまで「玲臣さん」と呼んでいたのに。
「どうした? 昨日も連絡、返してないだろ」
「すみません。少し、忙しくて……」
短く切った返事。視線を合わせることができない。
玲臣の瞳が探るようにこちらを見つめているのを感じ、皐月は心の奥がざわめいた。
本当は、返さなかったのではなく——返せなかった。
あのメッセージに、なんと答えていいのかわからなかったから。
会議が始まると、皐月はひたすら議事録の記入に没頭した。
玲臣の声が響くたびに胸が揺れる。冷静で知的な口調。周囲の役員がうなずくたびに、彼の存在の大きさを思い知らされる。
——こんな人に、私は釣り合わない。
——しかも、彼には別に好きな人がいる。
心の中で繰り返し、必死に自分を納得させる。
会議後。
廊下で足音が近づく。玲臣が追いかけてきた。
「皐月」
「……はい」
「お前、何か隠してるだろ」
「隠してなんて……」
答えようとした瞬間、足元でヒールがカツリと音を立てた。
人が通り過ぎる。皐月はその流れに乗るように、玲臣の前からすり抜けた。
「仕事がありますので、失礼します」
玲臣の視線が背中に突き刺さる。
けれど振り返る勇気はなかった。
夜。
オフィスを出ると、雨がまた降り始めていた。
街灯に照らされた水滴が光り、傘に落ちる音が静かに響く。
皐月は深くフードをかぶり、ひとり呟いた。
「……ごめんなさい、玲臣さん」
雨の匂いが、あの日の温室を思い出させる。
指切りした小さな手。
その約束を裏切るように、自分は彼から距離を置こうとしている。
けれど、これが彼の幸せにつながるのなら——。
皐月は傘を強く握りしめ、濡れた歩道を歩き出した。