雨の温室に咲く約束
第二章「嘘の相談」
週の半ば。午後の光がオフィス街を傾けはじめた頃、遠野皐月は社内のカフェテリアで待ち合わせをしていた。
カップの中で氷がかすかに音を立てる。指先に伝わる冷たさで、少しだけ胸のざわめきを紛らわせる。
「ごめん、待たせちゃった?」
明るい声とともに、玲奈が現れた。
ベージュのワンピースに淡いストール。親しげに微笑む姿は、誰からも好かれる“理想の友人”の顔だった。
「ううん、今来たところ」
「よかった。……最近、顔色悪くない?」
心配そうに皐月を見つめる玲奈。
その優しげな瞳に、皐月はほっとする。子どもの頃からずっと、玲奈は傍にいてくれた。だからこそ、昨夜の言葉を疑えなかった。
「……玲奈、やっぱり彼、悩んでるの?」
「うん」
玲奈は少し言い淀み、それから声を落とした。
「玲臣はね、本当は好きな人がいるの。ずっと前から……でも立場的に、あなたとの婚約を断れなかった」
皐月の心臓が、また痛むように鳴った。
わかっていたはずなのに、言葉にされると胸の奥がえぐられる。
「……私、どうしたらいいの?」
「皐月のこと、傷つけたくないんだと思う」
玲奈はテーブルの上で彼女の手を包み込む。
「だから、あなたのほうから距離を置いてあげたほうがいい。優しい皐月なら、それができるでしょ?」
——そう。優しいからこそ、彼を解放してあげなければ。
皐月はうなずいた。唇が震えていたけれど、笑みを作った。
「……そうだね。玲臣さんの幸せが一番だから」
玲奈の指先がわずかに強く握りしめる。
だがその一瞬の力の意味に、皐月は気づかなかった。
その日の夕方。
玲臣は執務室から出てきた皐月を呼び止めた。
「なあ、今日の夜……食事でも一緒にどうだ?」
いつもと変わらぬ低い声。だがその眼差しには、どこか不安と焦燥が見え隠れしていた。
皐月は胸を締めつけられながらも、笑顔で首を振る。
「ごめんなさい。今日は……予定があって」
「予定?」
「玲奈と、少し……」
玲臣の眉が僅かに動いた。
けれどそれ以上問い詰めず、「そうか」とだけ言った。
すれ違いの音が、心の奥で重く響いた。
夜の街。
皐月と玲奈は並んで歩いていた。雨上がりの歩道はまだ濡れていて、街灯に照らされて煌めいている。
「ねえ、皐月。無理しちゃだめだよ」
「大丈夫。私は平気」
本当は平気じゃなかった。
玲臣と目を合わせるだけで胸が締めつけられるのに、笑顔を作って背を向けることしかできない。
玲奈は隣で静かに微笑んだ。
その笑みに宿る影を、皐月はまだ知らない。
深夜。
自室に戻った皐月は、机の上に置いたスマートフォンを見つめた。
画面には玲臣からの未読メッセージ。
「明日、時間を作れないか」
指先が震える。
返したい。けれど、返してはいけない。
——彼の心は、もう別の人にある。
——私は、身を引くしかない。
皐月は画面を伏せて、そっと目を閉じた。
雨上がりの匂いが窓の外から忍び込み、胸に残る痛みをさらに濃くしていっ
カップの中で氷がかすかに音を立てる。指先に伝わる冷たさで、少しだけ胸のざわめきを紛らわせる。
「ごめん、待たせちゃった?」
明るい声とともに、玲奈が現れた。
ベージュのワンピースに淡いストール。親しげに微笑む姿は、誰からも好かれる“理想の友人”の顔だった。
「ううん、今来たところ」
「よかった。……最近、顔色悪くない?」
心配そうに皐月を見つめる玲奈。
その優しげな瞳に、皐月はほっとする。子どもの頃からずっと、玲奈は傍にいてくれた。だからこそ、昨夜の言葉を疑えなかった。
「……玲奈、やっぱり彼、悩んでるの?」
「うん」
玲奈は少し言い淀み、それから声を落とした。
「玲臣はね、本当は好きな人がいるの。ずっと前から……でも立場的に、あなたとの婚約を断れなかった」
皐月の心臓が、また痛むように鳴った。
わかっていたはずなのに、言葉にされると胸の奥がえぐられる。
「……私、どうしたらいいの?」
「皐月のこと、傷つけたくないんだと思う」
玲奈はテーブルの上で彼女の手を包み込む。
「だから、あなたのほうから距離を置いてあげたほうがいい。優しい皐月なら、それができるでしょ?」
——そう。優しいからこそ、彼を解放してあげなければ。
皐月はうなずいた。唇が震えていたけれど、笑みを作った。
「……そうだね。玲臣さんの幸せが一番だから」
玲奈の指先がわずかに強く握りしめる。
だがその一瞬の力の意味に、皐月は気づかなかった。
その日の夕方。
玲臣は執務室から出てきた皐月を呼び止めた。
「なあ、今日の夜……食事でも一緒にどうだ?」
いつもと変わらぬ低い声。だがその眼差しには、どこか不安と焦燥が見え隠れしていた。
皐月は胸を締めつけられながらも、笑顔で首を振る。
「ごめんなさい。今日は……予定があって」
「予定?」
「玲奈と、少し……」
玲臣の眉が僅かに動いた。
けれどそれ以上問い詰めず、「そうか」とだけ言った。
すれ違いの音が、心の奥で重く響いた。
夜の街。
皐月と玲奈は並んで歩いていた。雨上がりの歩道はまだ濡れていて、街灯に照らされて煌めいている。
「ねえ、皐月。無理しちゃだめだよ」
「大丈夫。私は平気」
本当は平気じゃなかった。
玲臣と目を合わせるだけで胸が締めつけられるのに、笑顔を作って背を向けることしかできない。
玲奈は隣で静かに微笑んだ。
その笑みに宿る影を、皐月はまだ知らない。
深夜。
自室に戻った皐月は、机の上に置いたスマートフォンを見つめた。
画面には玲臣からの未読メッセージ。
「明日、時間を作れないか」
指先が震える。
返したい。けれど、返してはいけない。
——彼の心は、もう別の人にある。
——私は、身を引くしかない。
皐月は画面を伏せて、そっと目を閉じた。
雨上がりの匂いが窓の外から忍び込み、胸に残る痛みをさらに濃くしていっ