雨の温室に咲く約束
第三章「距離の作法」
翌朝。
高層ビルのエントランスは、出勤する社員たちで慌ただしく賑わっていた。
ガラス張りの大理石の床を、パンプスの音がリズムのように刻む。
遠野皐月は、人波に紛れるように小走りで入館ゲートを通り抜けた。
視線はまっすぐ足元へ。わざと、彼がよく使うエレベーターとは別の方角へ歩く。
——これが、私にできる精一杯の“思いやり”。
胸の奥でそう言い聞かせる。
その頃。
玲臣はちょうどエレベーターのドアが閉まる瞬間に、廊下を振り返った。
人の波の中で、皐月の後ろ姿が遠ざかっていく。
「……また避けたな」
低く呟き、拳をポケットの中で握りしめる。
数日前までは当たり前に隣にいたのに。
理由を尋ねても、彼女は笑顔のまま「忙しい」としか言わない。
冷めたのか。それとも——。
午前の会議室。
長いテーブルを挟んで、皐月はメモを取っていた。
玲臣の席からは斜め向かい。真正面に座らないよう、自然を装って場所を選んだ。
ペン先の音に紛れて、視線が刺さる。
顔を上げられない。
書き続ける手が震えて、字が乱れる。
「皐月」
会議の合間、玲臣が名を呼んだ。
「はい」
「その資料、あとで俺の部屋に持って来い」
「承知しました」
冷ややかに聞こえる声。けれどその奥に滲む苛立ちを、皐月は痛いほど感じた。
昼休み。
社員食堂の一角で、玲臣がふいに近づいてきた。
トレイを置き、真正面に座る。
「……避けてるだろ、お前」
「そんなこと……」
「なら、目を見ろ」
皐月は息を呑み、俯いたままスープに口をつける。
返事をしない沈黙が、かえって答えになってしまう。
玲臣の指先が机をとんとんと叩いた。
「何があった?」
「……本当に、何も」
精一杯の笑顔を作り、強引に席を立つ。
「失礼します。午後の準備がありますので」
玲臣はその背中を見送りながら、心の奥で熱を抱え込んでいた。
夕方。
廊下で、偶然すれ違った。
廊下の片側には大きな窓が並び、ビル街の夕焼けを反射している。
「皐月」
また呼び止められる。
逃げ場のない一本道。
彼の影が差し、心臓が早鐘を打った。
「最近のお前、変だ」
「変なんて……」
「昔から俺を誤魔化すのは下手だ」
低い声に、胸が痛む。
けれど言えない。
本当は——彼には好きな人がいるから。
「……副社長。お先に失礼します」
機械的な敬語。
玲臣の眉が深く寄り、言葉を失う。
そのまま背を向けた皐月の視界に、窓の外の夕陽が滲んで揺れた。
その夜。
玲臣は自室でジャケットを脱ぎ捨て、机に手をついた。
「……何を隠してるんだ、皐月」
答えはない。
ただ雨上がりの夜風が、窓を揺らしていた。
高層ビルのエントランスは、出勤する社員たちで慌ただしく賑わっていた。
ガラス張りの大理石の床を、パンプスの音がリズムのように刻む。
遠野皐月は、人波に紛れるように小走りで入館ゲートを通り抜けた。
視線はまっすぐ足元へ。わざと、彼がよく使うエレベーターとは別の方角へ歩く。
——これが、私にできる精一杯の“思いやり”。
胸の奥でそう言い聞かせる。
その頃。
玲臣はちょうどエレベーターのドアが閉まる瞬間に、廊下を振り返った。
人の波の中で、皐月の後ろ姿が遠ざかっていく。
「……また避けたな」
低く呟き、拳をポケットの中で握りしめる。
数日前までは当たり前に隣にいたのに。
理由を尋ねても、彼女は笑顔のまま「忙しい」としか言わない。
冷めたのか。それとも——。
午前の会議室。
長いテーブルを挟んで、皐月はメモを取っていた。
玲臣の席からは斜め向かい。真正面に座らないよう、自然を装って場所を選んだ。
ペン先の音に紛れて、視線が刺さる。
顔を上げられない。
書き続ける手が震えて、字が乱れる。
「皐月」
会議の合間、玲臣が名を呼んだ。
「はい」
「その資料、あとで俺の部屋に持って来い」
「承知しました」
冷ややかに聞こえる声。けれどその奥に滲む苛立ちを、皐月は痛いほど感じた。
昼休み。
社員食堂の一角で、玲臣がふいに近づいてきた。
トレイを置き、真正面に座る。
「……避けてるだろ、お前」
「そんなこと……」
「なら、目を見ろ」
皐月は息を呑み、俯いたままスープに口をつける。
返事をしない沈黙が、かえって答えになってしまう。
玲臣の指先が机をとんとんと叩いた。
「何があった?」
「……本当に、何も」
精一杯の笑顔を作り、強引に席を立つ。
「失礼します。午後の準備がありますので」
玲臣はその背中を見送りながら、心の奥で熱を抱え込んでいた。
夕方。
廊下で、偶然すれ違った。
廊下の片側には大きな窓が並び、ビル街の夕焼けを反射している。
「皐月」
また呼び止められる。
逃げ場のない一本道。
彼の影が差し、心臓が早鐘を打った。
「最近のお前、変だ」
「変なんて……」
「昔から俺を誤魔化すのは下手だ」
低い声に、胸が痛む。
けれど言えない。
本当は——彼には好きな人がいるから。
「……副社長。お先に失礼します」
機械的な敬語。
玲臣の眉が深く寄り、言葉を失う。
そのまま背を向けた皐月の視界に、窓の外の夕陽が滲んで揺れた。
その夜。
玲臣は自室でジャケットを脱ぎ捨て、机に手をついた。
「……何を隠してるんだ、皐月」
答えはない。
ただ雨上がりの夜風が、窓を揺らしていた。