雨の温室に咲く約束

第八章「嫉妬の兆し

 秋の雨が、オフィスのガラスを叩いていた。
 空は低く、雲は鉛色に垂れ込めている。会議室の窓から差し込む光も弱々しく、室内の蛍光灯が白く冷たく机を照らしていた。

 皐月はプレゼン資料を手に、同席した役員の前で説明を終えた。
 小さな拍手のあと、会議室の空気がほどける。

「助かりましたよ、遠野さん」

 隣に座っていた佐伯智久が穏やかな笑顔で声をかけた。
 新任のCFO代理。三十代半ば、柔らかな物腰と理路整然とした話しぶりで、早くも社内の信頼を得つつある。

「とても分かりやすい資料でした。君がいて助かった」
「いえ……私なんて」
「謙遜しないでください。君が努力しているのは皆が知ってます」

 優しい声に、皐月の緊張が少し和らいだ。
 机の上で交わった視線に、思わず小さく笑みを返す。

 ——その光景を、扉口から見ていた人がいた。



 玲臣。
 スーツのポケットに手を突っ込み、黙って二人を見つめていた。
 皐月の頬がわずかに赤らむ様子。佐伯が椅子を引いて彼女を立ち上がらせる仕草。
 胸の奥で、言葉にならない熱がせり上がった。

「……」

 視線に気づいた皐月がはっと振り向く。
 そこに立つ玲臣の顔は冷たく、どこか怒りを含んでいた。

「副社長」
 佐伯が慌てて頭を下げる。
 玲臣は軽くうなずき、皐月を射抜くように見た。

「——送る。部屋まで」

 有無を言わせぬ声音だった。



 廊下。
 窓の外に雨粒が流れ落ち、街の灯が歪んで揺れている。

 皐月は隣を歩く玲臣に気圧され、足を速めた。
 やがて人気のない曲がり角で、腕をつかまれる。

「……痛っ」
「さっきのは何だ」
「何、とは……」
「楽しそうに笑っていたな。佐伯と」

 低い声が耳元に落ちる。
 皐月の胸が強く波打つ。

「彼は……ただ、優しくしてくれただけです」
「優しさに頬を赤らめるのか?」
「ちが……違います!」

 必死に否定する声。けれど玲臣の目は疑念に曇っていた。

「……俺には見せない顔を、どうして他人に見せる」

 皐月は唇を噛んだ。
 本当は、玲臣にだけ見せたい。けれど——。

彼には好きな人がいる。私ではない。

 その嘘を信じてしまっているから。

「……副社長。誤解です」
「誤解?」
「ええ。私たちは、ただの同僚です」

 精一杯冷静を装った声。
 玲臣はしばらく彼女を見つめ、それから乱暴に腕を離した。

「……ならいい」

 背を向けて歩き去る。
 皐月は廊下に立ち尽くし、胸に残る熱と痛みに目を閉じた。



 夜。
 皐月は自室で雨音を聞いていた。
 窓を叩く水滴が、鼓動と同じリズムで響く。

「……どうして、こんなに苦しいの」

 心の奥に問いかけても、答えは返ってこない。
 玲臣を想うほどに、遠ざけなければならない。
 その矛盾が、皐月の心をひたすら締めつけていた。
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