忘れた初恋

序章「封じた記憶」

 その日の空は、どこまでも灰色に沈んでいた。
 社長令嬢として生まれた私の邸宅は、手入れの行き届いた庭園を抱えていたが、春の雨に濡れた花々は重たげにうなだれ、いつもの華やかさを失っていた。
 ガラス窓を伝う水滴の筋が、やけに鮮明に心に焼きついている。

「莉子、泣くなよ」

 隣で声をかけてきたのは、幼なじみの少年――悠真だった。
 まだ十歳そこそこの年齢。けれどその立ち居振る舞いには、すでに将来を背負う者の影があった。
 私はハンカチをぎゅっと握りしめながら、彼を見上げた。

「……だって」

 涙がこぼれる。理由を言葉にしようとしても、幼い舌は上手に形を作れない。ただ胸の奥が痛くてたまらなかった。

 悠真は困ったように眉を寄せ、それでもまっすぐに私を見た。
「俺たちは……友達だろ?」

 その一言は、優しいはずなのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
 “友達”。
 それ以上には、なれないと突きつけられた気がした。

「……友達、だけ?」

 かすかな声で問い返す。
 彼は一瞬目を逸らし、雨に煙る庭の方を眺めながら答えた。

「うん。俺は父さんの会社を継ぐんだ。これからは勉強も忙しくなるし……莉子とは、今までみたいに毎日遊んだりできなくなると思う」

 理屈ではなく、本当に大人ぶった口調だった。
 十歳の子供が言うには重たすぎる言葉。
 それでも、彼の家に生まれた宿命を考えれば自然なことなのだと、幼い私なりに理解していた。

 でも。
 だからこそ胸の奥が締めつけられる。
 「遊べなくなる」――それは「私なんかいらない」と同じ意味に聞こえた。

「……わかったわ。じゃあ、忘れる」

 小さな声で告げた瞬間、自分の胸の奥から何かが音を立てて崩れ落ちた。
 心臓の奥に抱えていた大切な宝物が、砂に変わってこぼれ落ちていくようだった。

「莉子?」

 悠真は驚いたように名を呼んだけれど、私は首を振り、無理に笑った。

「……平気よ」

 その笑みはきっと、幼いなりの精一杯の強がりだった。
 そして、唇の奥からこぼれたのは、自分に言い聞かせるような小さな呟き。

「私はもう、初恋なんて……忘れたから」

 雨音にかき消されて、彼に届いたかどうかもわからない。
 けれど、届かなくてよかった。知られたくなかった。
 ――私が、彼を好きだったことなんて。

 本当は忘れられるはずがない。
 でも、忘れたことにしなければ、泣いてしまいそうで。
 泣いてしまえば、きっと彼に気づかれてしまうから。

 私は胸の奥に鍵をかけた。
 薔薇の花に降り注ぐ雨とともに、その日から私の「初恋」は封じ込められた。

 彼の横顔を、決して追わないと心に決めながら――。
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