忘れた初恋
第九章「偽りの婚約」
父から突然告げられた言葉に、私は耳を疑った。
「来月の晩餐会で、お前の婚約を発表することにした」
応接室の重厚な机を挟んで、父は淡々と語る。
相手の名前を聞いた瞬間、胸がきしんだ。
先日の懇親会で何度も誘いをかけてきた、取引先の御曹司。
家の利益を考えれば、政略的に申し分のない縁談だ。
「……父様、私は——」
「わかっている。だがこれは会社のためでもある。お前なら理解できるはずだ」
理解。
その言葉に押し潰されそうになる。
本当は、心が別の名前を呼んでいるのに。
数日後。
社内でもその噂はすぐに広まった。
会議の合間、女性社員がひそひそと囁く声が聞こえる。
「やっぱり、社長令嬢は政略婚なのね」
「でも、相手は御曹司なら釣り合うわ」
「副社長とは……違ったのね」
胸に刺さる言葉。
違う。違うのに。
でも、否定することもできず、私はただ資料を抱えて会議室に向かった。
会議が終わったあと、廊下で待ち構えていた人影に足を止めた。
悠真だった。
冷ややかな瞳が、私を射抜く。
「偽りの婚約、か」
その言葉に、息を呑んだ。
「……どうして、それを」
「社内の噂は耳が早い。君が否定しなかった時点で、事実と同じだ」
「違うの。私は……!」
必死で言葉を探す。
けれど彼は、私の声を遮った。
「家のために、君は簡単に頷く。俺にはそう見えた」
冷徹な言葉。
でも、その奥に燃えるような感情があるのを私は感じた。
「違う……私は頷いてなんか——」
「なら、なぜ笑って受け流す」
彼の声が低く強まる。
その迫力に押され、思わず一歩退いた。
けれど次の瞬間、彼は私の手首を掴んだ。
「……君は、誰のものだ」
再び問われたその言葉に、心臓が大きく跳ねる。
答えたいのに、声が出ない。
初恋を隠したい気持ちと、彼に応えたい想いがせめぎ合い、唇が震える。
「私は……」
その先を言えなかった。
ちょうどそこへ、父の秘書が廊下を通りかかり、二人の距離を遮ったのだ。
「副社長、社長がお呼びです」
悠真はゆっくりと手を離し、冷たい声を残した。
「……婚約を演じるのは勝手だ。だが、俺の前でだけは、その笑顔を見せるな」
背を向けて去っていく彼の姿。
胸が痛む。
偽りの婚約が、彼をさらに遠ざけていく。
その夜、鏡の前でドレスを合わせながら、自分の顔を見つめた。
社交界の花。
社長令嬢。
偽りの婚約者。
本当は違う。
心が求めているのは、ただひとり。
雨の日の庭で、私に「忘れる」と言わせた彼。
忘れたふりを続ける限り、真実は届かない。
でも、今さら「初恋だった」と告げることなんて、できるのだろうか。
揺れる思いを胸に抱いたまま、夜は更けていった。
「来月の晩餐会で、お前の婚約を発表することにした」
応接室の重厚な机を挟んで、父は淡々と語る。
相手の名前を聞いた瞬間、胸がきしんだ。
先日の懇親会で何度も誘いをかけてきた、取引先の御曹司。
家の利益を考えれば、政略的に申し分のない縁談だ。
「……父様、私は——」
「わかっている。だがこれは会社のためでもある。お前なら理解できるはずだ」
理解。
その言葉に押し潰されそうになる。
本当は、心が別の名前を呼んでいるのに。
数日後。
社内でもその噂はすぐに広まった。
会議の合間、女性社員がひそひそと囁く声が聞こえる。
「やっぱり、社長令嬢は政略婚なのね」
「でも、相手は御曹司なら釣り合うわ」
「副社長とは……違ったのね」
胸に刺さる言葉。
違う。違うのに。
でも、否定することもできず、私はただ資料を抱えて会議室に向かった。
会議が終わったあと、廊下で待ち構えていた人影に足を止めた。
悠真だった。
冷ややかな瞳が、私を射抜く。
「偽りの婚約、か」
その言葉に、息を呑んだ。
「……どうして、それを」
「社内の噂は耳が早い。君が否定しなかった時点で、事実と同じだ」
「違うの。私は……!」
必死で言葉を探す。
けれど彼は、私の声を遮った。
「家のために、君は簡単に頷く。俺にはそう見えた」
冷徹な言葉。
でも、その奥に燃えるような感情があるのを私は感じた。
「違う……私は頷いてなんか——」
「なら、なぜ笑って受け流す」
彼の声が低く強まる。
その迫力に押され、思わず一歩退いた。
けれど次の瞬間、彼は私の手首を掴んだ。
「……君は、誰のものだ」
再び問われたその言葉に、心臓が大きく跳ねる。
答えたいのに、声が出ない。
初恋を隠したい気持ちと、彼に応えたい想いがせめぎ合い、唇が震える。
「私は……」
その先を言えなかった。
ちょうどそこへ、父の秘書が廊下を通りかかり、二人の距離を遮ったのだ。
「副社長、社長がお呼びです」
悠真はゆっくりと手を離し、冷たい声を残した。
「……婚約を演じるのは勝手だ。だが、俺の前でだけは、その笑顔を見せるな」
背を向けて去っていく彼の姿。
胸が痛む。
偽りの婚約が、彼をさらに遠ざけていく。
その夜、鏡の前でドレスを合わせながら、自分の顔を見つめた。
社交界の花。
社長令嬢。
偽りの婚約者。
本当は違う。
心が求めているのは、ただひとり。
雨の日の庭で、私に「忘れる」と言わせた彼。
忘れたふりを続ける限り、真実は届かない。
でも、今さら「初恋だった」と告げることなんて、できるのだろうか。
揺れる思いを胸に抱いたまま、夜は更けていった。