忘れた初恋
第十章「嫉妬の炎」
晩餐会のホールは、光と音と人の熱気で溢れていた。
長いテーブルには銀の食器と色とりどりの料理、グラスの中で揺れる赤いワイン。
社交界の要人たちが談笑し、次々と乾杯の声が響く。
私はその中央に立っていた。
父の隣、そして噂の御曹司と並べられる形で。
煌びやかなドレスを纏っても、心は重く沈んでいた。
「皆さま、本日はお集まりいただきありがとうございます」
父の声が響く。
「このたび、我が娘・莉子と、立花家のご子息との婚約を取り決めました」
会場に拍手が広がる。
笑顔、祝福、羨望。
その中で、私は凍りついていた。
偽りの婚約。
本当は受け入れていない。
けれど、否定の言葉をこの場で口にすることもできない。
その瞬間。
低い声が会場のざわめきを裂いた。
「その話は、初耳だが」
振り向いた先に、悠真がいた。
黒のタキシードに身を包み、鋭い瞳で壇上を射抜いている。
会場の空気が一瞬にして張り詰めた。
「副社長……?」
ざわめく声。
悠真は歩み出て、私と御曹司の間に立った。
「彼女は——まだ誰のものでもない」
会場が静まり返る。
御曹司の顔が怒りに歪んだ。
「副社長、それはどういう意味ですか」
「文字通りの意味だ」
悠真の声は冷徹。けれどその奥に、熱が燃えている。
「彼女の笑顔を、軽々しく自分のものと錯覚するな」
その言葉は、御曹司だけでなく会場全体を震わせた。
「悠真さん……やめて」
思わず掴んだ袖。
けれど彼は振り返らない。
ただ私を守るように前に立ち続ける。
「偽りの婚約に意味はない。彼女は笑顔を作っているだけだ」
ざわめきが広がる。
社交界において、これはあまりに無謀な発言。
けれど、彼の声には揺るぎない力があった。
「莉子」
ようやく振り返った瞳は、冷たいはずなのに燃えていた。
「君は、誰のものだ?」
再び投げかけられる問い。
心臓が痛いほど高鳴る。
答えられない。
けれど、答えたい。
その葛藤の中で、会場の視線が突き刺さる。
父の険しい顔、御曹司の怒り、招待客の好奇の目。
すべてが私を追い詰めた。
「私は……」
声が震えた。
だがそのとき、悠真が一歩近づき、私の肩を強く抱いた。
「俺が答えよう」
その声は炎のように熱く、会場を切り裂いた。
「彼女は——俺のものだ」
会場に衝撃が走る。
御曹司が声を荒げ、父が立ち上がり、招待客たちが息を呑む。
けれど私の耳にはもう、何も届いていなかった。
悠真の腕の中で、心臓が爆発しそうなほど打ち続けていたから。
冷徹な副社長の仮面を破り、嫉妬と独占欲を露わにした悠真。
その炎に焼かれながらも、私は逃げることができなかった。
——偽りの婚約。
それはたしかに、嫉妬の炎を燃え上がらせる導火線になってしまったのだ。