忘れた初恋

第十一章「拒絶と渇望」

 晩餐会の翌日、社内の空気は妙な熱を帯びていた。
 どこを歩いても耳に入ってくるのは、昨日の悠真の発言についての囁きだ。

「副社長が“俺のものだ”って……」
「社長令嬢を公衆の面前で抱き寄せるなんて」
「でも、あれは本心に違いないわよね」

 噂の中心にいる私は、足を止めずに役員フロアへ向かう。
 俯いた視界に、資料の角が白く光っていた。
 ——あの一言が、まだ胸に焼きついて離れない。



 会議室のドアを押すと、悠真がいた。
 黒いスーツに身を包み、冷徹な副社長の顔をしている。
 なのに、私には昨日の炎のような眼差ししか思い出せなかった。

「……おはようございます」
 努めて事務的に頭を下げる。
 しかし彼は書類を閉じ、まっすぐにこちらを見据えた。

「昨日の件について、言いたいことはあるか」

 胸が跳ねる。
 けれど私は微笑を貼りつけ、表面的な言葉を選んだ。
「おかげで婚約は白紙になるかもしれません。感謝しています」

「礼は要らない」
「ですが……あのような言葉は、私には重すぎます」

 彼の眉が僅かに動く。
「重い? では君は俺にとって軽い存在だとでも?」

「そういう意味ではありません!」
 声を荒げてしまい、唇を噛む。
「私は……誰かの“もの”じゃない」

 その瞬間、悠真の瞳が鋭さを帯びる。
 静かに立ち上がり、私へ歩み寄ってくる。



 息が詰まった。
 気づけば私は資料室に逃げ込んでいた。
 紙の匂いに包まれ、胸の奥で乱れる鼓動を必死に抑える。

 しかし——。

「莉子」

 ドアが開き、悠真が入ってきた。
 閉ざされた空間に、彼の影が深く落ちる。

「逃げるな」
「私は……逃げてなんか」
「目を逸らすことも、逃げるのと同じだ」

 低い声とともに歩み寄る足音。
 棚に追い込まれ、逃げ場を失った。

「昨日の言葉を、もう一度言う」
 彼の瞳が熱を帯びる。
「君は……俺のものだ」

「やめて……そんな言葉、聞きたくない!」

 拒絶の声を上げた、その瞬間。
 彼の手が頬に触れ、次の瞬間、唇が重なった。

 強引で、抗えない熱。
 思わず目を見開き、彼の胸を押す。
 抵抗しようとするのに、胸の奥では別の熱が暴れていた。
 ——なぜか涙が滲む。

「……っ、やめ……」
 必死に絞り出した声で、彼ははっとしたように身を離した。

 荒い呼吸のまま私を見つめ、彼は拳を握りしめる。
「……すまない。だが、どうしても抑えられなかった」

 冷徹な副社長の仮面はもうなかった。
 そこにいるのは、理性を突き破られたひとりの男だった。



 私は震える唇に指をあて、背を震わせた。
 拒絶したはずなのに、胸は焼けるように熱い。
 嫌悪ではなく、渇望に近い感情が自分を支配していることが、何よりも怖かった。

「……悠真さん」
「君が拒んでも、俺は諦めない」
 彼の声は低く、揺るぎない。
「たとえ今は拒絶されても、俺は必ず君を手に入れる」

 扉を開け、彼は去っていった。
 残された空間に、まだ熱が漂っている。

 私は棚に背を預け、震える息を吐いた。
 拒絶したはずなのに、胸の奥では彼の熱を追い求めていた。
 ——拒絶と渇望。
 その二つの感情に引き裂かれながら、私は立ち尽くしていた。
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